施餓鬼供養
本 遠 寺
 堀川に架かる白鳥橋の少し東に本遠寺がある。室町時代に創建された寺で、水死者を弔う施餓鬼供養を江戸時代から続けている。明治になると今の向陽高校の前身である女学校が境内に創設されている。

    室町初期の創建   水死者を弔う 施餓鬼供養   境内に高等女学校



室町初期の創建
   ◇神宮の法華堂を移築 創建
 妙光山本遠寺(ほんのんじ)は日蓮宗の寺で、室町時代初期の応安年間(1368~75)に創建された。
 江戸時代の資料には法華堂本遠寺と書かれているものが多い。熱田神宮にあった法華堂を移転して創建したからだ。この法華堂は、延暦年間(782~806)に最澄が建立して法華経百日の修行をし、日蓮もここで百日読経して立宗の祈願をしたと伝えられる由緒ある建物であった。
 日蓮の孫弟子である本乘院日澄が熱田神宮の神官に頼んで譲り受け、この地に移設して創建したのでこのような呼称になったのである。

◇紹巴が連歌の会
 永禄10年(1567)には連歌師の里村紹巴(じょうは)が富士を見に行った旅の帰路、8月7日にこの寺で連歌の会を開いた。『紹巴富士見道記』には「七日には法花(ママ)堂本遠寺にして決行 わたつみの玉やうかへる雲の月」と記録されている。

 
◇国宝の楼門
 『名古屋南部史』によると立派な入母屋造りの楼門があり、大正10年(1921)に国宝に指定されたとのことである。なお、当時は古社寺保存法により文化財の保存指定が行なわれたが、現在のように国宝と重要文化財の区分はなく、すべて国宝である。
 また法華堂は、建築年代不明だが外観などは室町建築の特徴があり室町初期か中期のようで、市内屈指の古建築、客殿は信長の書院を移設したものと伝えられていると書いてある。

 見事な古建築だったが太平洋戦争で焼失し、昭和39年(1964)に法華堂、55年(1980)に本堂、平成8年(1996)に書院が再建された。



『尾張名所図会』



水死者を弔う 施餓鬼供養
   享保7年(1722)〔『尾張年中行事絵抄』では6年)8月14日に暴風雨がこの地方を襲い多くの犠牲者が出た。
 それ以降、本遠寺では毎年8月14日に施餓鬼供養を行ってきた。文政4年(1821)は百回忌にあたりとりわけ盛大に行われたが、その様子を『金明録』は次のように記録している。
 「先、読経・音楽執行有て、海上へ出ては、舟中にても音楽をなす。其舟には、仏幡等を飾る五色、(紅・黄・花色・白・紫)の絹を以て作る、信俗の乗舟数百艘こぎつらねて行列す、参詣群集、往来たへまなく、本町通りに続き、堀川よりの参詣舟も又、おびたゞし。」
 本堂で読経や音楽の演奏が行なわれ、その後僧や参拝者は五色の布で飾られた舟に乗り海へこぎ出し、船中でも音楽が奏でられた。その数は数百隻にも及び、名古屋からも本町通や堀川を通ってたくさんの人が参拝に来たとのことである。

 日本三大川施餓鬼の一つに挙げられ、今も9月14日に行なわれている。


『尾張年中行事絵抄』


境内に高等女学校
 明治40年(1907)に熱田町立高等女学校が本遠寺の境内に開設された。本科と技芸専修科があった。

 熱田町の名古屋市への併合により、名古屋市立第二高等女学校に改名され、その後熱田東町五本松(高座結御子神社の北西)に移転し、昭和12年(1937)に熱田西町へ再移転している。現在の向陽高校の前身である。

 昭和53年(1978)に創立70周年を記念して、同窓会により記念碑が建てられている。

 

 『名古屋市実測図』 明治43年

『名古屋市街全図』 大正6年

『大名古屋市』 昭和15年





 2022/02/24