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なお畑中地蔵講中が出した由来書によると
不思議な出来事とは、[掘った農夫の夢枕に異様な人が現れ「我を祭らば願い事を叶えてやろう」と言って消えた]とのことである。また、榎は大正元年(1912)9月1日の大暴風で倒れ、その一部で弘法像をを刻み御堂のなかに安置してあるとのことである。
『尾張徇行記』は寛政4年(1792)に起稿し、文政5年(1822)に完成しているので、掘り返したのはその少し前頃の事だろう。掘り除けようとした位なので、その頃はまだ只の石だったのが、祈るとご利益があると評判が広まっていった。
◇1800年代中期にはお地蔵様、江戸末期には金山神社のご神体
その後、天保9年(1838)に編纂が始まった『尾張名所図会』には次のように書かれている。
「社(金山神社)の南の畑中に大なる石あり。いつの頃よりか地蔵也といひならはして、瘧(おこり)を病もの祈願するに、必しるしあり」
1800年代中頃になると、瘧(マラリアなどの熱病)にご利益のある御地蔵様になっている。
さらにその後、安政(1854~60)頃に一応完成し、明治の内容も含む『松濤掉筆』ではさらに発展している。
「其(金山神社)南に金山地蔵(畑中地蔵)とて是も近年より七月廿四日てうちん灯して参詣あり。線香焼・手水鉢もある様に成。
其神躰ハ黒岩土中より生立たる物を地蔵と称す。実ハ金山彦之神躰之由。
犬山の西黒岩村の神祠、神体ハ木曽川堤の上に昔より在来ル黒岩一を以て祭ると同し事にや。
爰(ここ)に金山神を祀る。初ハ府城石垣の石、此西辺亀屋河戸あたり着岸する石共作り直す。石鑿のつふれを直ス時、金山彦を祀ると云説あれとも、此黒岩に拠時ハ夫より前ニ在之か。」
江戸時代末期には線香立や手水鉢も置かれ祭礼も行われた。また、この石は金山神社の御神体と言われるようになっていた。
このことから著者の奥村徳義は、金山神社は元はここに祀られていた。それは、築城の時に近くの瓶屋河戸(現:瓶屋橋付近)で陸揚げした石を加工した石工が鑿を鍛冶屋と同じように自分で補修しており、そのため鍛冶の神である金山神を祀ったとの説を唱えている。
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