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『尾張名所図会』は、断夫山のことを、次のように記している。
「旗屋町の西の方にありて、陵墓の形したる丘山なり。南高く北卑(ひく)し。高貴の人の廟なるべけれど、伝うせて誰といふ事をしらず。あるいは白鳥の陵これなりともいへり。これまた慥なる証説なし。
この山は常に人の入る事を禁ずれども、三月三日には登る事をゆるして、諸人遊覧の興をなさしむ。折から熱田潟の汐干の風景、眼下に見え渡りて殊に佳なり」
貴人の古墳であるという説明に続いて、断夫山は普段は登ることが出来ないが、3月3日だけ許されていると書かれている。
『尾張名所図会』や『尾張年中行事絵抄』には、春の一日を断夫山に登り楽しむ人々の姿が描かれている。
新緑の木々が鮮やかな断夫山に登ると、西南には遮るものがない眺望が開けている。折しも春の大潮、広大な干潟が現れ、そこには潮干狩りでもしているのであろうか、たくさんの人が豆粒のように見えている。
断夫山は、のどかで雄大な景色を見る展望台としてうってつけの場所であった。入山禁止の場所を一日だけ解放するとは、ずいぶん粋な計らいである。
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