戦中 日本有数の飛行機会社
愛知時計電機・愛知航空機

 愛知時計電機は、水道やガスのメーター等の計測器やセンサーシステムの会社として知られている。
 時計の製造会社として発足し、時代の要請から軍需物資を製造するようになり、戦争中は日本有数の飛行機製造会社になった。そのため熱田大空襲ではたくさんの犠牲者をだしている。時代の波に翻弄されながら乗り越えて今に至っている。


    愛知時計電機   飛行機の製造   飛行艇と自動車



愛知時計電機
◇ルーツは時計
 愛知時計電機のルーツは、明治25年(1892)(明治26年とも)に設立された愛知時計製造(資)である。
 名古屋では明治20年(1887)から時計の生産が始まり多くの製造会社が設立され、42年(1909)頃には国内で販売される6割半が愛知県、そのうち8割が名古屋で製造されていた。主力製品は柱時計で、江戸時代から木曽桧の集散地で良質の木材が入手できたことが興隆の一因である。
 愛知時計製造(資)は31年(1898)に株式会社になり、45年(1912)に社名が愛知時計電機に変わっている。

◇軍需品の製造
 時計メーカーだった愛知時計製造が軍需品を始めたきっかけは日露戦争である。
 明治37年(1904)に戦争が始まると信管部品の製造を軍から委託された。信管は砲弾や爆弾などの点火装置で、一定の条件を満たしたときは確実に作動し、保管や運搬中は間違って作動することがないように精密に作られる。このため精密機械である時計を作っていた愛知時計に委託されたのである。また39年(1906)に海軍から兵器製造が発注され、以後は海軍の仕事が増加した。

 同社は時計部と電機部を設置し、時計部は掛・置時計、蓄音機、機械洋灯(?)の製造を行った。電機部は各種通信機、電機諸機械、信管など精密兵器の製造を行うようになり、明治45年(1912)には社名にも「電機」の2字が加わった。
 大正3年(1914)に第一次世界大戦が始まると大量の軍需生産を引き受け、兵器の製造に重点が移っていった。



飛行機の製造
◇名古屋で飛行機の製造始まる
 大正7年(1918)に東京砲兵工廠熱田兵器製造所(現:神宮東公園など)がエンジンと飛行機機体の製造を始めた。9年(1920)になると東京砲兵工廠名古屋機器製作所(現:千種公園など)が設立されてエンジンの製造を始めている。その後熱田兵器製造所は機体の製造、名古屋機器製造所はエンジンの製造を担当するようになった。

 このようななか、大正9年(1920)に愛知時計電機は飛行機の製造に乗り出した。瑞穂工場(現:瑞穂区二野町)を増改築して飛行機製作仮工場とし、11月に1号機の製造に成功した。
 同じ年に三菱内燃機製造(株)(現:三菱重工)が設立され、6号地(山崎川の南)でエンジンと機体の製造を始めている。

◇愛知時計電機……日本有数の飛行機製造会社へ
 事業拡張のため、大正11年(1922)に南区千年船方に新工場の建設を行った。2月から飛行機組立工場と特殊兵器機械工場の建設を始め同年中に完成した。さらに築地4号地に飛行機の格納庫と海面に飛行機を下ろす桟橋(スロープ)を設置している。12年(1923)になると本社を船方へ移転し、14年(1925)には時計部が担当していた業務を新設した愛知時計(株)に移管して、愛知時計電機(株)は海軍兵器である飛行機・水雷・電気に関する機器の製造に特化した。

 大正15年(1926)になると逓信省航空局が行った輸送用水上機と陸上機の懸賞に応募し、水上機部門で1等、陸上機部門で2等に当選して試作をしている。
 この年の従業員数(飛行機以外も含む総数)は、職員が120人、職工が1,400人で、合計1,520人であった。

 当初は機体の製造だけであったが、昭和2年(1927)にはイギリスやフランスのメーカーから製作権を得て飛行機エンジンの製造も始めた。その後、独自に設計した愛知空冷300馬力エンジンを製造している。
 製造する飛行機は主に海軍が発注した水上機の偵察機・戦闘機・練習機・飛行艇で、大正15年(1926)から昭和11年(1936)までに海軍軍用機506機を製造した。なお、飛行機とともに船方工場では海軍向けの魚雷や水雷・発射管などの兵器製造も行っていた。



大正11年 『大名古屋市街地図』

昭和7年 1/50000
 昭和12年(1937)7月に盧溝橋事件が起き日中戦争が長期化するなか、昭和13年(1938)2月に船方工場前に2万坪の土地を入手して約1万坪の工場を新設し、発動機工場にした。太平洋戦争が始まる直前の16年(1941)5月には永徳に工場を新設して九九式艦爆の量産体制を整えている。

◇愛知航空機を分社
 戦局が不利になるなか飛行機の増産を図るため、昭和18年(1943)に愛知航空機(株)(現:愛知機械工業)を設立して機体とエンジンの製造を移管した。
 庄内川河口の東岸である稲永新田(永徳)に本社が置かれ、機体工場として永徳(本社内)・船方(現:愛知機械工業)・11号地(現:港区空見町)・伊保(現:豊田市)の4工場、エンジン工場として千年(熱田発動機製作所)・4号地(旧:飛行艇の格納庫)の2工場を擁していた。

 従業員数が一番多かったのは航空機部門では昭和19年(1944)9月の26,240人、発動機部門は同年4月の9,415人であった。わずか19年前の大正15年(1926)は1,520人の職員しかいなかったのが、戦争により異常な規模にまで膨張したのである。

 なお熱田空襲の時に中学3年生で、動員学徒として愛知航空機熱田発動機製作所で働いていた塚本利夫さんが『名古屋空襲誌』に寄せた思い出には、当時の従業員について次のように書かれている。

 「愛知航空機の従業員は約8,500人。そのなかには動員学徒が約2,000人、海軍工作兵が220人、残りの従業員の半数以上が徴用工員であった。徴用工員のなかには、独身の女で編成された女子挺身隊員も含まれている。
 愛知時計は従業員約21,000人、そのなかには動員学徒が約5,600人、徴用工員が約13,000人いた。

昭和12年 『名古屋市街全図』


昭和18年 『名古屋市全図』
開戦後の地図は、機密保持の為
工場名など一切記載がない
 両工場共に全国各地から動員された徴用工員や学徒が多数を占め、愛知航空は6割5分、愛知時計は8割以上が正規の従業員ではなかった。この複雑な従業員の組織が、不意打ちの集中爆撃による、多くの身元不明の爆死者を出す原因になったのである。」

 製造した主な機種は九六式艦上爆撃機・九九式艦上爆撃機・零式水上偵察機・艦上爆撃機「彗星」などで、5,352機を作っている。

 なお、永徳工場跡地である稲永公園の西には、水上機を下ろすための斜路(スリップ)が今も堤防の外に残されている。





飛行艇と自動車
◇F5飛行艇の製造
 F5飛行艇は、第一次世界大戦末期にイギリスで開発されショート社が製造した飛行艇で、実戦には間に合わなかった。艇体は合板製の複葉機である。

 日本海軍は大正8年(1919)に爆撃機として配備することとし、翌年に8機購入した。10年(1921)にショート社の技師を招き横須賀海軍工廠で製作技術の講習会を開催し、愛知時計電機や広海軍工廠(広島県広村)の技師も参加している。大正12年(1923)に制式採用され、昭和5年(1930)頃まで現役であった。横須賀と広の海軍工廠と愛知時計電機で60機ほど製造された。



『絵葉書』


『絵葉書』
右上の円内は、4号地の格納庫と思われる

◇国産自動車「アツタ号」の製造
 昭和5年(1930)からは自動車の試作・研究を始めた。
 当時の市長である大岩勇夫が、この地方を自動車工業地帯にと提唱した「中京デトロイト構想」により、4社が協力して自動車の開発を始めたのである。愛知時計電機が計器・電装品、大隈鉄工所がエンジン、岡本自転車自動車がシャーシー・トランスミッションなど、日本車輌が車体・内装・総組立と販売を担当した。
 昭和7年(1932)に完成し翌年に2台を販売した。水冷8気筒で3,940ccのエンジンを搭載した高級車だが、大衆車のフォードが3,000円だったのに対し6,500円の高価格で、製造コストは更に高い9,200円のため採算が合わず立ち消えとなった。



アツタ号 『日本車輌80年のあゆみ』




 2023/04/03