愛知時計電機は、水道やガスのメーター等の計測器やセンサーシステムの会社として知られている。 時計の製造会社として発足し、時代の要請から軍需物資を製造するようになり、戦争中は日本有数の飛行機製造会社になった。そのため熱田大空襲ではたくさんの犠牲者をだしている。時代の波に翻弄されながら乗り越えて今に至っている。 |
愛知時計電機 | 飛行機の製造 | 飛行艇と自動車 |
昭和12年(1937)7月に盧溝橋事件が起き日中戦争が長期化するなか、昭和13年(1938)2月に船方工場前に2万坪の土地を入手して約1万坪の工場を新設し、発動機工場にした。太平洋戦争が始まる直前の16年(1941)5月には永徳に工場を新設して九九式艦爆の量産体制を整えている。 ◇愛知航空機を分社 戦局が不利になるなか飛行機の増産を図るため、昭和18年(1943)に愛知航空機(株)(現:愛知機械工業)を設立して機体とエンジンの製造を移管した。 庄内川河口の東岸である稲永新田(永徳)に本社が置かれ、機体工場として永徳(本社内)・船方(現:愛知機械工業)・11号地(現:港区空見町)・伊保(現:豊田市)の4工場、エンジン工場として千年(熱田発動機製作所)・4号地(旧:飛行艇の格納庫)の2工場を擁していた。 従業員数が一番多かったのは航空機部門では昭和19年(1944)9月の26,240人、発動機部門は同年4月の9,415人であった。わずか19年前の大正15年(1926)は1,520人の職員しかいなかったのが、戦争により異常な規模にまで膨張したのである。 なお熱田空襲の時に中学3年生で、動員学徒として愛知航空機熱田発動機製作所で働いていた塚本利夫さんが『名古屋空襲誌』に寄せた思い出には、当時の従業員について次のように書かれている。 「愛知航空機の従業員は約8,500人。そのなかには動員学徒が約2,000人、海軍工作兵が220人、残りの従業員の半数以上が徴用工員であった。徴用工員のなかには、独身の女で編成された女子挺身隊員も含まれている。 愛知時計は従業員約21,000人、そのなかには動員学徒が約5,600人、徴用工員が約13,000人いた。 |
昭和12年 『名古屋市街全図』 昭和18年 『名古屋市全図』 開戦後の地図は、機密保持の為 工場名など一切記載がない |
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両工場共に全国各地から動員された徴用工員や学徒が多数を占め、愛知航空は6割5分、愛知時計は8割以上が正規の従業員ではなかった。この複雑な従業員の組織が、不意打ちの集中爆撃による、多くの身元不明の爆死者を出す原因になったのである。」 製造した主な機種は九六式艦上爆撃機・九九式艦上爆撃機・零式水上偵察機・艦上爆撃機「彗星」などで、5,352機を作っている。 なお、永徳工場跡地である稲永公園の西には、水上機を下ろすための斜路(スリップ)が今も堤防の外に残されている。 |
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◇国産自動車「アツタ号」の製造 昭和5年(1930)からは自動車の試作・研究を始めた。 当時の市長である大岩勇夫が、この地方を自動車工業地帯にと提唱した「中京デトロイト構想」により、4社が協力して自動車の開発を始めたのである。愛知時計電機が計器・電装品、大隈鉄工所がエンジン、岡本自転車自動車がシャーシー・トランスミッションなど、日本車輌が車体・内装・総組立と販売を担当した。 昭和7年(1932)に完成し翌年に2台を販売した。水冷8気筒で3,940ccのエンジンを搭載した高級車だが、大衆車のフォードが3,000円だったのに対し6,500円の高価格で、製造コストは更に高い9,200円のため採算が合わず立ち消えとなった。 |
アツタ号 『日本車輌80年のあゆみ』 |
2023/04/03 |
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