熱田新田と名古屋を結ぶ
百曲街道

    熱田新田への道 百曲街道   県道 百曲街道



熱田新田への道 百曲街道
 熱田新田が開発される以前は、中野外新田や中島新田などが海に面しており、海岸堤防が設けられていた。正保4年(1647)に熱田新田が開発されると、住民たちは風波の被害を避けるため北端の旧海岸堤防近くに集落を造った。
 百曲街道は、堤防道路や近くの集落を通る道で、熱田や名古屋へ行くのに便が良く、熱田新田にある三十三の番割観音を巡礼する人もあって賑わいを増していった。



県道 百曲街道
  ◇道路区分の制定
 明治9年(1876)に、太政官は国道・県道・里道の区分を制定した。
 国道は全国的な幹線道路、県道は地域の幹線道路、里道はそれ以外の道でそれぞれ1~3等の種別があった。

 そのうち、県道については次のように定められている。
  1等 各県ヲ接続シ、及ヒ各鎮台ヨリ各分營ニ逹スルモノ。
  2等 各府県本庁ヨリ、其ノ支庁ニ逹スルモノ。
  3等 著名ノ区ヨリ都府ニ逹シ、或ハ其ノ区ニ徃還スヘキ、便宜ノ海港ニ逹スルモノ。

◇百曲街道は1等県道
 明治12年(1879)の時点で愛知県内の県道は、1等が2路線、2等が9路線、3等が14路線で合計25路線であった。
 百曲街道はこのうち1等県道に指定されている。もう一つの1等県道は下街道(江戸時代は名古屋から大曽根を経て中山道の大井宿を結んでいた街道)である。ちなみに飯田街道は3等県道に指定されている。

 この時の百曲街道は『愛知県史』〔発刊:大正3年(1914)〕に「尾州愛知郡名古屋門前町ヨリ同郡熱田新田東組ニ於テ東海道に通ス 一里四町四尺」と記録されている。
 西本願寺名古屋別院付近から南へ延びて熱田新田東組(中川より東の区域)で東海道(前ヶ須街道)に接続する延長4.4㎞の街道である。

 熱田新田東組内の道筋ははっきり解らない。
 明治25年(1892)の地図を見ると、中川に近いところに幅が2m以上の道(図では実線)と、その東に1m未満の道(図では破線)が東海道へ延びており、いずれかの道だった可能性が高い。

下図 明治25年 1/50000
 『愛知県史』では延長4.4㎞となっているが、西別院から熱田新田の北端までで4㎞余あり、東海道までだと5.5㎞余の距離になる。江戸時代の一里塚は測量して設置されておらず相当の誤差があり、記載されている百曲街道の距離も江戸時代と同程度の精度である。

◇百曲街道の延長
 明治18年(1885)に太政官は国道などの等級を廃止し、内務省は国道表を告示した。
 東海道は国道第2号線、名古屋街道は国道第10号線に名称が変わっている。なお、国道の番号は大正8年(1919)に国道の再編成が行われて現在のものに変更されている。

 
 百曲街道も時期は不明(明治25年(1892)以前〕だが、路線が変わった。
 『愛知県史』には刊行時〔大正3年(1914)〕の百曲街道について次のように記載している。
 名古屋市と愛智郡小碓村国道第2号線を結ぶ道路で、起点は名古屋市前塚町、終点は愛知郡小碓村。経路は名古屋市・愛知郡八幡村・荒子村・小碓村で、延長は二里十一丁二十五間となっている。

 明治12年(1879)と比べると、国道に合流する地点が西へ移っている。中野外新田や中島新田などの堤防跡を西に進み庄内川の明徳橋で国道第2号線に合流する、9.2㎞の街道である。

下図 明治25年 1/50000
 なお、起点が明治12年(1879)時点では門前町、大正3年(1914)頃は前塚町と書かれている。西本願寺の東側は国道第10号線(旧名古屋街道、旧美濃街道)で町名は門前町、南側が前塚町なので、国道第10号線から分岐する所が百曲街道の起点で、表記が異なるだけで実質は同じである。

 『名古屋市史』〔刊行:大正4・5年(1915~6)〕は次の記載になっている
 「百曲リ街道【ママ】 は前塚町(橘町角)に起り、旅籠町を經て、日置橋西詰を南へ曲り、山王橋までを市内地とし、夫(それ)より江川筋に沿ひて下り、更に西折して愛知郡小碓村に至り、国道第二号線に合す、幅員二間以上にして、市内の分、延長十一町四十一間あり.本道路は交通頻繁ならずと雖(いえど)、亦(また)、要路の一たるを失はず」

◇日置橋の擬宝珠
 百曲街道は日置橋で堀川を渡っている。県道に指定されて間がない明治14年(1881)に日置橋が架け替えられた。昭和13年(1938)に再度架け替えられたが、親柱は明治のものが使われ今も残されている。
 この擬宝珠には明治14年(1881)の改築にあたり、資金を寄付した人たちの名が刻まれ、最後に「百折一道達三重縣 寶珠之灮(ほうじゅのこう)萬世不變 森邨宜民撰」とある。名古屋から南西に延び東海道を経て三重県に行くことができるこの街道の重要性と、架け替えにあたり協力した人々の心意気をたたえた一文である。


◇なぜ百曲街道が1等県道に?
 名古屋から東海道に出るには、堀川の東を通る国道第10号線(旧名古屋街道、旧美濃街道)で熱田に行き、大瀬子渡しで堀川を渡って東海道を行くルートもある。
 デジタル地図で測ると西別院から中川の東(現:東海橋)までは約7㎞ほどの距離だ。一方、百曲街道経由だと6㎞ほどなので、1㎞しか短縮できない。徒歩で15分程度短いだけで大きな改善は期待できない。『名古屋市史』には「交通頻繁ならず」と書かれ、名古屋からの利用者はあまり多くなかったようである。

 通行量や田園地帯を通っている事を考えると3等県道でも良いように思われるこの道が1等県道になったのは、日置橋で堀川を渡る事で大瀬子渡しを使わずに行けるメリットがあったからではなかろうか。
 渡し船はたくさんの人を渡すには時間がかかる。国道・県道・里道の制度が設けられた明治9年(1876)には、地租改正を巡り伊勢で暴動が発生した。現在の松阪市で農民が蜂起して役場や学校などを焼き討ちし、瞬く間に海東郡や海西郡まで波及した。警察では鎮圧できずに、名古屋鎮台の軍隊と日当で雇われた士族が出動して鎮圧している。
 多くの兵隊などを速やかに異動させるのには大瀬子渡しを利用しないルートが必要ということで、1等県道になった可能性が考えられる。




 2022/01/01