土蔵が建ち並ぶ
四 間 道
 四間道は東側に古くからの蔵が連なり、西側には長屋造りの建物の残る、名古屋では数少ない江戸時代の風情を感じさせる街である。
 近年になり、個性的な町並を生かした新しい店もでき、ユニークな発展が期待される地域である。

    元禄の大火   大火後に四間道に   納屋橋付近まで続いた蔵



元禄の大火
 四間道と書いて「しけみち」と読む。
 変わった名は、道幅が4間(7.3m)あることから付けられた。この道が4間に拡幅されたのは元禄の大火後である。

◇元禄の大火
 名古屋は城下町の広い範囲を焼き尽くす大火災に3回見舞われている。万治の大火(万治3年、1660)、元禄の大火(元禄13年、1700)、享保の大火(享保9年、1724)である。
 元禄の大火は、元禄13年(1700)2月7日辰上刻(午前7時過ぎ)に、四間道の西にある信行院(高田本坊名古屋別院)近くに住む長助の家から出火した。
 北西の風に煽られて南東へと燃え広がり、堀川を超えて伏見町まで火の海となっていった。堀川東岸の材木三か町は木材・竹・薪・炭等を扱う商人が住む地域なので燃えるものには事欠かない。建ち並ぶ町屋は家と家が接するように建っているので次々と延焼してゆく。その後、南あるいは南東の風へと変わった。今度は北へと燃え広がってゆく。現在の国道22号北の海福寺付近まで火の手が迫るが、有効な消火方法がなかった時代なので燃えるに任せるしかなかった。鎮火したのは翌8日の辰刻(午前8時頃)というから、丸1日燃え続けた大火災であった。




『広井村絵図』 江戸時代後期
 『鸚鵡籠中記』(おうむろうちゅうき)の著者朝日文左衛門は、「猛火湧虚空。百千万の雷の如し。予始て如此き火事を見る。」と、そのすさまじさを記録している。
 また、総河戸(現在の景雲橋付近)では、赤ちゃんを抱いた母親が乳母とともに堀川の舟に逃げたが、舟もろとも焼け死んだという。碁盤割の道幅は当時としては広かったが4間(7.3m)程度しかない。逃げ場を失い幅20mほどある堀川へ逃ればと考えたのであろうが助からなかった。
 同書によると、民家1,669軒、武家屋敷21軒、借家は数知れず(他の資料では18,983軒)、寺12寺、神社3社が焼け、3橋(五條橋・中橋・伝馬橋)が焼け落ちた。



大火後に四間道に
◇大火後 四間道誕生
 城下町の西半分が焼け野原になり、その復興の中で、この道が4間幅に拡げられたのである。
 防火帯として拡幅されたとも言われるが、碁盤割地区の道路が4間で火災が広がっており防火帯としては意味をなさない。また、万治の大火(万治3年・1660)の後には防火空地として広小路を幅15間(27.3m、13間とも)に拡幅しており、それと比較しても防火帯としての整備ではないであろう。

 それまで美濃街道の裏通りであった狭い道を市街地並みに拡げたという方が妥当と考えられる。

◇どちら側を拡幅?
 では、道のどちら側を拡げたのであろうか。四間道の拡幅以前の道幅や道のどちら側を広げたかの記録はない。
 これまでは、道路の東側に火災前年の元禄12年(1699)に建築された蔵が残っていたことから、西側を広げたのではないかと言われてきた。

 しかし、道を見ると不自然な所が残っている。五條橋筋との交差点から南約30mの区間は道幅が狭くなっているのだ。北に延びる塩町裏の道幅とほぼ同じで道路の線形も自然につながっている。拡幅以前の道はこの幅だったのではなかろうか。
 元の道幅は2間半(4.6m)で、拡幅部との凹凸から、東側に2m、西側に1m程度広げられたと考えられる。

 普通一ブロック単位で行われる拡幅が、途中で終わっているのはどうしてだろうか。
 火災前の『名古屋城下図』を見ると、今、道幅が狭い所の西側は水埜弥三右(水野弥三右衛門)という武士の屋敷になっている。町屋は狭い敷地にびっしりと家が建っているが、武家屋敷は広い敷地で十分な空地があり延焼しにくい。このため武家屋敷の前は拡幅の必要がなかったと思われる。

 拡幅部の道幅も一定ではない。以前の道幅は、7.1mから8.1mで、東側は蔵が道路に突き出す不自然な凹凸があった。この大火で土蔵も106棟焼失したと記録されており、焼け残った貴重な蔵に配慮しながら両側を拡幅したと考えられる。




『名古屋城下図』
 元禄7年(1694)


平成27年(2015)頃の蔵と道路線形


納屋橋付近まで続いた蔵
 今では四間道というと昔の蔵が残る五條橋筋から中橋筋までの区間を指すが、本来は納屋橋付近まで続く道であった。
 『金鱗九十九之塵』に「四軒道 陌(みち)筋南北 納屋通りの西裏にあり。上は巾下堀詰町の堺より下は水車・菜矢鵜町に至る。此筋都而(すべて)東側、皆蔵屋鋪なり」とある。南北の通りで、北は現在の小塩橋の筋から南は納屋橋南西まで続き、東側は全部蔵が連なっているということだ。

 なぜ、東側は蔵が連なっていたのであろうか。
 これは堀川の舟運と関係している。城下唯一の幹線輸送路である堀川で多くの物資が運ばれ、岸に建てられた蔵に舟から陸揚げした商品が保管されている。堀川沿いの道路を挟んだ西側には店舗兼住宅が建てられた。道路に面したところは店舗として使われ、奥が住宅部分。その先には小庭がしつらえられ、敷地の一番奥に家財などをしまう蔵が建てられた。この形態が一番使い勝手がよく、どの家も同じような敷地利用になったので裏通りである四間道に面して蔵が建ち並ぶ光景が生まれたのである。

 『名府太平鑑』に「塩町から納屋裏まで一五町余の間、白壁の土蔵には浪花者も舌を巻き、碁盤割の町中に総格子の無商売多くて豊に暮すを見て江戸子もきもをつぶし」と記されている。
 かつては15町(1.6㎞)にもわたって白壁の土蔵が続いており、当時日本経済の中心地として繁栄していた浪花(大阪)の人もその光景に感嘆したという。

 名古屋の繁栄を象徴するように建ち並んでいた蔵もだんだん姿を消していった。
 明治24年(1891)10月28日にこの地方を襲った濃尾地震では大きな被害を受けた。
 『地震聚報』によると「大舟小舟舟入の各町の裏に建列らねし四間道通りの土蔵は、七八分以上崩壊し、其他広井花車何分小借家勝の処ゆえ彼所に八戸此所十戸算ふるに遑(いとま)あらず。目も当られざる有様にて中にも花車の常信寺(ママ、浄信寺)は本堂及び庫裡迄残らず破壊せり」とある。
 四間道の蔵の7~8割が地震で倒壊し姿を消してしまったのだ。

 その後の産業構造や輸送の変化により、四間道沿いで栄華を誇った商家も減り土蔵の数が減っていった。五條橋と中橋の間は、幸い戦災も少なく、まとまって蔵や古い家屋が残り、昭和61年(1986)6月に「町並み保存地区」に指定された。以前にくらべるとずいぶん数が減ってしまったが、残された蔵や長屋がかつての面影を今に伝えている。


町並み保存地区





 2022/06/05