東海道の脇往還
佐屋街道

 日本で一番賑やかな街道、東海道。海を越える七里の渡しは天候に左右される不安定な交通路であった。そのバイパスとして造られたのが佐屋街道である。多くの利用があったが、明治5年に新東海道(前ヶ須街道)が開かれて役割を終えた。

    佐屋街道とは   貴人などの通行   佐屋街道の終焉



佐屋街道とは
 佐屋街道は東海道の脇往還である。東海道の熱田から桑名までは七里の渡しの船旅で、白い帆に風を受け景色を楽しみながら行くのどかな旅なら良いが、船酔いになる人もあり、海が荒れると欠航や遭難も起きる東海道の難所でもある。
 これを避けて、熱田から北上し尾頭橋で堀川を超えて一路西へ、佐屋を経て桑名へ行く脇往還(本街道と連絡する迂回路)が佐屋街道だ。熱田宿から岩塚・万場・神守・佐屋の宿場を通る6里(24㎞)の陸路で、その後は3里(12㎞)の川下りで桑名に着く。

 道は江戸時代以前からあったが、整備されたのは寛永11年(1634)に3代将軍家光が通行した時である。
 当初は今の堀川に架かる瓶屋橋の所を通る道筋だったが、寛文6年(1666)に幕府の道中奉行が管理する官道に指定され、翌7年(5年説もある)に今の尾頭橋を通るルートに変更された。
 道幅は岩塚地内で2~4間(3.6~7.3m)、 宿に用意されている人足と伝馬は50人・50匹(佐屋は桑名までが船渡しなので25人・25匹)である。東海道の半分で中山道と同数であることから、この街道の重要さと多くの利用があった事がうかがえる。



貴人などの通行
 佐屋街道は庶民だけでなく高貴な人の通行もあった。

◇3代将軍家光
 寛永3年(1626)9月30日と11年(1634)8月9日、3代将軍家光が上洛の帰途にこの道を通った。11年の時は家光のために整備された熱田の東浜御殿で宿泊している。

◇曲亭馬琴
 享和2年(1802)8月15日には、曲亭馬琴が雨で桑名から七里の渡しの船が出なかったので、佐屋街道を通り名古屋へ来ている。
 その時に佐屋宿の本陣に頼まれ「宮舟はきれものじやとてつかの間も さやへまはればあぶなげはなし」という狂歌をつくり短冊に記して残した。

◇東本願寺門主たち
 天保4年(1833)2月12日に、東本願寺門主たちが江戸に向かったのも佐屋街道だ。
 一目その姿を拝謁しようと佐屋街道から古渡あたりまでぎっしりと信徒などが押し寄せた。万場の渡しには随行や荷物を運搬する人のための船橋が架けられ、門主の乗る船は藩が用意した。街道沿いの村々では幟や提灯を建て連ね、裃姿の人がお金を台に乗せて献上し、畑に筵を敷いたり松の根に腰掛けたりしてたくさんの人が通行を出迎えたという。

◇14代将軍家茂
 文久3年(1863)2月28日には14代将軍家茂(いえもち)が、家光以来229年ぶりとなる将軍の上洛にあたって佐屋街道を通行した。熱田の西浜御殿を発ち、岩塚・神守宿で休憩、佐屋宿で昼休をして桑名へ向かった。

◇明治天皇
 明治天皇もこの道で東京と京都を行き来した。
 明治元年(1868)9月26日東京へ行く時、12月18日京都へ帰る時、翌2年3月16日に再び東京へ行く時に佐屋街道を利用している。熱田の宿所はいずれも西浜御殿であった。


東本願寺門主たちの万場の渡し通行風景
『名陽見聞図会』


14代将軍家茂の、佐屋到着風景
『御上洛東海道』歌川芳盛画


佐屋街道の終焉
◇佐屋川の土砂堆積
 佐屋から桑名への三里の渡しは、祖父江町で木曽川から分流する佐屋川や加路戸川などを通るルートである。

 佐屋川は木曽川から流下する土砂が年々堆積して水深が浅くなり、江戸時代後期になると渡し船の航行が難しくなってきた。
 『佐屋村史』には「佐屋川の次第に川底高まるにつれ毎年3月頃より、10月頃迄は佐屋渡船塲にて乗船することを得たれども、10月より3月頃迄は減水のため焼田にて、船に乗降したるものなり」と書かれている。

 明治元年(1868)9月に明治天皇が東行したときは、尾張藩の白鳥丸がお召し船に使われたが、水深が浅くて進む事ができず急遽4,000人の人夫を集めて浚渫させた。このため午前7時に桑名を出発したが佐屋宿に到着したのは午後2時で7時間かかってしまった。明治2年3月の東行では佐屋宿まで船で行かず、途中の焼田で上陸して陸路で佐屋宿に向かった。この時は午前7時に桑名を出立し、焼田で上陸したのが午前11時で4時間かかっている。


三里の渡し
下図『尾張国全図』明治12年

◇佐屋街道から新東海道(前ヶ須街道)へ
 佐屋街道は熱田と桑名を大回りのルートで結んでおり、さらに三里の渡しは十分に機能しない状況になっていた。
 このため明治5年(1872)の太政官布告により佐屋街道は廃止され、江戸時代に開発された干拓新田地帯を行く前ヶ須街道(新東海道)が開かれたのである。
 なお、佐屋川は明治に行われた木曽三川分流工事により木曽川からの分流口が閉鎖されて廃川になった。


下図 『尾張国全図』 明治12年




 2024/02/16