城下の治安を守る
橘町の大木戸
 この南北の道は、名古屋と熱田を結ぶ幹線道路で本町通とか熱田道と呼ばれ、東海道の熱田宿と中山道の垂井宿を結ぶ美濃街道でもあった。
 この場所には不審者が城下に入り込まないように木戸が設けられていた。



 江戸時代の名古屋は熱田からの出入口にあたるここ橘町のほか、清洲からの出入口である美濃街道の樽屋町、下街道は坂上町(現:赤塚交差点北西)に設けられていた。なお、『名古屋市史』はこの他巾下に、『金鱗九十九之塵』は飯田街道の駿河町にもあったとしている。

 木戸の内側は木戸内と呼ばれ城下、外側は木戸外と呼ばれ郊外であった。
 木戸は夜には閉鎖され不審者が城下へ入り込むのを防ぐ軍事上重要な施設であった。また、文化4年(1807)には、熱田で出火したとき火元係は全員橘町大木戸の外まで駆けつけるようにとの御触れが出ている。

 これらの大木戸は明治5年に取り壊された。

 

『古渡村絵図』

『享元絵巻』


『尾張名所図会』

『絵本上雲雀』
   



 2021/08/20