説経節と和歌で知られた
小栗街道と古渡旧橋
 江戸時代に説経節が流行し、人気演目に「小栗判官」があった。これにより鎌倉街道は小栗街道と呼ばれるようになった。また鎌倉時代に詠まれた和歌に古渡橋が出てくる。街道や橋はどこにあったのだろうか。
 じつに鎌倉時代の古渡は、交通の要衝だったのである。


    鎌倉街道と小栗街道   小栗街道はどこ?   古歌の古渡橋はどこ?
    古渡はどこ?    



鎌倉街道と小栗街道
 建久3年(1192)源頼朝が鎌倉に幕府を開き、京と鎌倉との間を多くの人々が往来するようになった。京と鎌倉の旅程は、『東関紀行』『十六夜日記』などによれば、16~7日間かかっている。江戸時代に入り、東海道が開かれるまでは、鎌倉街道が官道であった。

 鎌倉街道は、小栗街道とも呼ばれている。
 閻魔大王によって、この世に餓鬼の姿で送り返された小栗判官がいざり車に乗り、人々に曳かれて、藤沢(現:神奈川県)の遊行道場から熊野湯の峯(現:和歌山県)まで旅をする。その様子が説経節「小栗判官」で歌われる。

 「三河に掛けし八橋の、蜘蛛手にものや思ふらん、沢辺に匂ふ杜若(かきつばた)。花は咲かぬが実は鳴海、頭護の地蔵と伏し拝み、一夜の宿をとりかねて、まだ夜は深き星が崎、熱田の宮に車着く。車の檀那御覧じて、かほど涼しき宮をたれか熱田とつけたよな。熱田大明神を引き過ぎて、坂はなけれどうたう坂、新しけれど古渡、緑の苗を引き植えて、黒田と聞けば、いつも頼もしのこの宿や。」
 説経節『小栗判官』によって、鎌倉街道は、小栗街道とも呼ばれるようになった。




小栗街道はどこ?
 『那古野府城志』は、小栗街道について、次のように述べている。
 「小栗海道といへるは、昔し萱津宿より今の稲葉地の支邑、東海上中村米野村北一色村露橋村の交ひへかかり、今稲荷祠と犬見堂の間を経て、其さき東の方は地曳く、昔しは入海にて、今の大喜村高田村へは渡航の場なり。されば於今大喜村小径に一老松あり、其下に石地蔵あり。其像甚古し。即是上野之路の跡と申伝へ、古渡より通行する所の古街道筋なり。大喜村のさき井戸田村桜村古鳴海村へかかれり。是れ古の鎌倉街道と称する者なり。」

 鎌倉街道は、甚目寺の萱津、中村区の稲葉地、東宿、米野を過ぎ、中川区の一色、露橋を通る道だ。国道19号と市道山王線の交叉する辺に、犬御堂があった。往時、犬見堂と稲荷神社(山王稲荷)の間を鎌倉街道は通っていた。そして、大喜、高田へと続く。

『美濃路見取絵図』




古歌の古渡橋はどこ?
 「むかしよりその名かはらぬ古渡り さてもくちせぬ橋はしらかな」
 飛鳥井参議雅経(まさつね)が鎌倉に行く途次、詠んだ歌である。
 『新古今和歌集』の選者のひとりである鎌倉初期の歌人、飛鳥井雅経が、江戸時代に堀川に架橋された古渡橋を渡ることはない。

 歌が詠まれた古渡橋は犬見堂と山王稲荷の間を流れていた水路にかかる橋であった。その橋の橋脚が江戸時代水路に横たわっていたという。

 『尾張名所図会』に次のように記されている。
 「古歌によみし古渡の舊橋は是(堀川の古渡橋)にはあらで、近き頃まで犬御堂と稲荷の間の溝に、古き橋杭の横はりてありしが、まさしく舊橋のなごりにて、則此所より西の方、露橋村・上中村などをへて、萱津のかたへ通ふ道を今も小栗街道と呼べり。諸国ともに小栗街道といへるは必古道の通稱なれば、飛鳥井雅経卿の通られしも、此あたり遠からざりしなるべし」

『古渡村絵図』




古渡はどこ?
 古渡と呼ばれた熱田台地から入り海を大喜村や高田村(現:瑞穂区)へ渡る渡し場について、『新修名古屋市史』は、次のように述べている。

 [古渡の中心を往時の「古渡橋」と考えたとき、中世の古渡は、今日の古渡町や古渡橋よりおよそ0.5~1㎞ほど東側やや南寄りの、熱田台地の東の縁から急に低地に降り立った辺り(葉場公園付近)ということになる。]

 鎌倉時代にはすでに陸地化が進み、『十六夜日記』の作者は熱田神宮に参拝した後、干潮だったので干潟を歩いて鳴海に向かっている。古渡から大喜へ渡し船で行き来したのは満潮の時だけと考えられるが、それよりずっと昔に海が北の方まで入りこんでいた時代には渡し船が頼りだった。その記憶が「古渡」の呼称となったのであろう。

5mメッシュデジタル地図で作製
(0~10mで色分け)


 2021/09/05