名古屋駅開設
栄から西方向
 『明治の名古屋』 明治43年頃
広小路の延伸
 名古屋きっての繁華街 広小路。今は笹島から都心まで続いているが、明治初期までは長者町より西は狭い道であった。
 名古屋に駅が出来たときに拡幅されて、その後名古屋のメインストリートになった。

    長者町~納屋橋 幅3.6m未満の道   名古屋駅設置 23.7mの道へ



長者町~納屋橋 幅3.6m未満の道
 納屋橋を通る東西の道は、今では広小路と呼ばれているが、かつては狭い道であった。開府当時は城下町の南端で、町の排水をになう堀切(排水路)があることから「堀切筋」と呼ばれていた。

 万治3年(1660)に町の相当部分を焼き尽くす大火があった。このため防火帯として、長者町より東は15間(27.3m)に拡幅され「広小路」と呼ばれるようになった。


長者町を境に、東は広い広小路、西は狭い堀切筋
『元文3年名古屋図』 1738
 しかし、それより西は狭いままで『愛知県史』には
 「長者町通リ以西ハ、道幅甚タ狭小ニシテ、南側ニ、幅六尺(1.8m)以上ノ深キ惡水路ヲ堀リ通シ、堀切筋卜呼ヒ、納屋橋ニ通セリ」
 「堀川以東、長者町ニ至ル、従来二間(3.6m)未満ノ道幅」とある。

 明治になっても長者町より西の区域は道幅が狭く、3.6mもない道と1.8m以上の排水路がある道で、両側は一部を除き屋敷町になっていて閑静な所であった。



名古屋駅設置 23.7mの道へ
  ◇名古屋駅の設置 道路整備が条件
 碁盤割市街地の外れに架かる納屋橋界隈が、大きく姿を変えることになったのは鉄道の開通である。

 文明開化の象徴ともいうべき鉄道は、明治5年(1872)に新橋~横浜が開通したのをかわぎりに、民営も含めて建設が進んでいった。東海道は海運が活発なことと、艦砲射撃を受けやすく軍事上不利なことから、17年(1884)に中山道ルートでの建設が始まった。
 当時の吉田区長(現:市長)や国貞県令(現:知事)は、上京して東海道が有利なことを説得し、その結果工事費の問題もあって東海道ルートへ変更となった。
 しかし、市内から駅への道路を造らなければ、駅の設置は難しいと条件をつけられた。

◇広小路を納屋橋まで延伸
 このため、長者町から納屋橋までは、それまで2間(3.6m)未満だった道幅を13間(23.7m)に広げ、納屋橋から笹島に造られる停車場までは10間(18.2m)の道路を新設する計画をたてた。
 測量・用地買収・家屋の移転が進められ、明治19年(1886)12月から道路工事が始まった。翌年1月になってもまだ建物の移転は完了しておらず、停車場付近の水田の埋め立てを始めたばかりで、あちこちで地均しや砕石を敷いている状態であった。



広小路が納屋橋まで延伸、納屋橋から笹島へ新道
『名古屋明細地図』 明治26年
 ところが2月中旬に天皇が通行する事になり、これに間に合うよう急ピッチで工事が進められて大半が完成し、5月には関連する伝馬町通や江川添いの道路も含め完工した。この工事に合わせて納屋橋も19年(1886)に拡幅されている。

 これにより長者町以西の狭い「堀切筋」は「広小路」に変わり、後に名古屋一のメインストリートになる基盤が造られた。




 2022/01/20