線路の東西を結んだ
明 治 橋
 笹島交差点の一つ南の交差点に「めいちはし」と刻まれた石柱が建っている。これは、かつて東海道線などを越えるためにかけられた跨線橋である明治橋の親柱だ。なぜ跨線橋が架けられたのだろう。

    踏切から跨線橋へ   橋 の 終 焉



踏切から跨線橋へ
◇鉄道開通 踏切で東西を結ぶ
 名古屋駅ができたのは明治19年(1886)のことで、笹島の田圃の中に造られた。これに合わせて市街地から駅への便を図るため、長者町通から納屋橋までの広小路が拡幅され、さらに納屋橋から駅まで新設道路が造られた。しかしこの延伸された広小路通は笹島で行き止まりになっており、線路を越えて西側に行くには、少し南を通る柳街道に設けられた祢宜町踏切を利用した。


『蓬左風土記』
◇明治橋 建設
 東海道線に加えて、明治28年(1895)には関西鉄道(後の関西線)が名古屋駅に乗り入れ、33年(1900)には中央線が一部開通することになった。列車の運行が大幅に増加し、踏切では線路東西を結ぶ交通をさばききれなくなるので、踏切を廃止し跨線橋を架けることにした。

 当時の鉄道局が線路を越える部分41mの跨線橋を建設し、名古屋市が延長188間(342.2m)の祢宜町道路を整備して、跨線橋への取り付け道路(拡幅・南北道路の跨道橋・スロープ等設置)を築造する事業である。



『築港図名古屋測図』 明治41年
 明治34年(1901)3月31日に完成し、市が整備した跨道橋は幅が4間(7.2m) 、長さが8間(14.6m)である。これにより東海道線・中央線・関西鉄道(後の関西線)の上を越えて通行できるようになった。
 4月5日に市長など50名が参加して開通式が明治橋の上で行われた。式典後には余興として花火や相撲・獅子舞・投げ餅等があり、非常に盛況だったと『新愛知』は報道している。

 この明治橋は名古屋で最初に架けられた跨線橋で、その後は41年(1908)に南大津通の拡幅整備で中央線を越える金山橋と東海道線を越える高座橋が架けられている。

 明治橋はその後大正13年(1924)に改築が行われた。



橋 の 終 焉
◇明治橋から笹島ガードへ
 やがて姿を消すときがきた。昭和12年(1937)の名古屋駅の移転である。駅を笹島交差点北から現在の位置へ移転し、併せてそれまで平地に敷かれていた線路は土盛の上に敷設された。これにより跨線橋の明治橋は必要がなくなり、広小路の延長に鉄道が道路の上を通る跨道橋(ガード)が設けられ、笹島ガードが名古屋の旧市街と中村を結ぶメインストリートになったのである。

 明治橋は36年間、名古屋と中村方面をつなぐ幹線道路として、多くの人が通行した。
 中村公園へ行く親子連れ、遊郭へ遊びに行く人々、野菜や下肥を積んだ大八車やリヤカーなどが、橋の下を通る機関車の煙を浴びながら橋を渡っていった。

 昭和28年(1953)刊行の『中村区史』には、かつての明治橋周辺の様子を次のように記録している。
「今の名古屋駅舎(昭和12年完成の旧名古屋駅舎)の出来る前までは東海道・関西両線も跛行的平地運転のため跨線の明治橋があつた。これが中村遊廓に通ずる唯一の街道で狭い道に古びた家が土堤下に並び、縄暖簾の居酒屋、関東煮や大福餅の屋台見世位のものであつた。更に昔へ遡れぽ無数の往き来の遊客がロマンスを造つた残る話もあろう」



『名古屋市街全図』 昭和12年



『大正昭和名古屋市史』




 2022/01/07