庶民の道   
   下街道
   北区の東南部を国道19号が通っている。名古屋から長野を結ぶこの道は、多くの車が行き交う市内でも有数の幹線道路だ。
 国道1号の前身は東海道ということは、誰でも知っているが「国道19号の前身は?」と問われて、答えられる人はほとんどないであろう。人々の記憶の淵からぬぐい去られてしまったが、「下街道」は名古屋と中山道を結び、城下東北の玄関として大曽根の繁栄をもたらし、今の国道19号の前身であった道である。
    
  下街道とは   昔の大曽根へタイムスリップ   上街道との競争

下街道とは 
 
 「下(した)街道」とは変わった名前だが、清水口から北へ伸びる「稲置街道」(木曽街道)が尾張藩の公式街道で別名「上街道」と呼ばれたのに対し、庶民が使う非公式の街道だったことからこのように呼ばれた。また、長野の善光寺へ参拝する人の通行も多かったことから「善光寺街道」、内津峠を越えることから「内津街道」、伊勢参りのため名古屋に向う人も多く「伊勢街道」とも呼ばれた。

内津峠に日本武尊の伝承が残っているように、このあたりは古代より東濃と尾張を結ぶ交通路として使われてきた道筋である。江戸時代のはじめ、名古屋に街が造られるとともにこの街道は本格的に発展していった。

 
  下街道は、名古屋の伝馬橋筋と本町筋の交差点(現:中区錦二丁目)から始まり、本町筋を北へ進んで京町筋(外堀通の一本南)で折れて東へ向う。堀川の五条橋から東へ伸びているこの筋は、大正生まれの古老が子どもの頃には「街道筋」とも呼んでいたという。東に向うのは下街道、西に向うと美濃街道に続いており、街道筋と呼ばれるのにふさわしい道だ。きっと人通りも多かったことだろう。
  ここから、大曽根村、山田村をとおり、矢田川・庄内川を越える。矢田川は「山田の渡し」、庄内川は「勝川の渡し」と呼ばれる民営の渡船があった。「勝川の渡し」は船頭4人がいて、船賃は荷を積んだ馬が10文、人が6文であり、渇水期の冬は仮橋がかけられていた。勝川から今の国道19号のルートで北東へつづき、大井宿手前の槙ヶ根(恵那市)で中山道に合流していた。延長14里半(58㎞)の道である。


昔の大曽根へタイムスリップ
   江戸時代の大曽根にタイムスリップしてみよう。
 赤塚に大木戸
 名古屋城下への主な出入口は五か所あり五口と呼ばれている。そのうち大曽根口(下街道・瀬戸街道)、熱田口(熱田街道、美濃街道)、枇杷島口(美濃街道)の3か所には、外部からの侵入に備えて頑丈な大木戸が設けられている。大曽根の大木戸は今の赤塚交差点の近くにあった。大木戸のかたわらには番小屋があり、常時二~三人の役人が不審な通行人がいないか見張っている。夕方六時に大門を閉め、夜10時には小門も閉鎖して通行禁止になる。
 城下への入口なので、いざという時には軍の拠点に使えるように、まわりには広い敷地を持つ相應寺(千種区城山町一丁目に移転)や善行寺・本覚寺・関貞寺など多くの寺院が配置されている。
 
 高札場
  赤塚から下街道が下り坂で北へ伸びている。
 坂の途中、本覚寺の少し手前の東側に高札場がある。柵で囲まれた中に、家族の和合やキリシタンの禁止など人々に周知させることを書いた高札が建っている。
 坂を下ったところは坂下町。ここでは、名古屋城北東の土居下から続く御成道が西から合流してくる。今の大曽根南交差点の場所だ。

『尾張名陽図会』
 坂の下には名水
この付近は台地の下なのできれいな水が湧く。道端には「弘法の井」がある。弘法大師が熱田から竜泉寺へ参詣する途中、ここで護摩を行うため仏前に供える閼伽(あか)の水を汲んだと言い伝えられている。誰でも利用できる道端にあり、通りすがりの人々の喉をうるおす甘露の水である。この井戸は
戦前まで水が湧き出していたが、今では国道19号の下になっている。東側にある商家の裏には、二代藩主光友が清く冷たい水を誉めて名づけたという「清柳水」(きよやなぎのみず)と呼ぶ井戸がある。
 街道はこのすぐ北で円満寺にぶつかり東に折れている。円満寺の境内には芝居の定小屋があり、娯楽の少ない時代なので近くはもちろんのこと、勝川などからも見物に来た人々で賑わっている。
 

『尾張名陽図会』 
 煮売屋の賑わい
 幅3間(5.5m)の道の両側には、商店や茶屋が軒をつらねている。近在から来た真っ黒に日焼けした農夫が
肥料の干鰯(ほしか)を大八車に積み込んでいる。油徳利をぶらさげて行灯の油を買いに来たお使いの子どもがいる。大曽根まで来れば、村の「よろずや」(いろいろな物を売っている小さな店)にはない物が手に入る。下街道を信州からの荷を積んできたのであろうか、「煮売り屋」の店先では重い荷を積んだ馬の口を引いた中馬が、手ぬぐいで汗を拭きながら昼食を買っている
 
 一里塚
 さらに少し進むと街並みは終わり、道の両側に土盛りをして榎を植えた一里塚がある。名古屋の伝馬町から1里(4㎞)の場所だ。今のオズモールの中央あたりである。昭和16年発行の『東大曽根町誌』には、「近年まで面影が残っていたが、今では都市化が進み完全に無くなった」と書かれているものだ。
 その先で大幸川の支流を渡る。このあたりの川幅は2間(3.6m)程度で石橋がかかっていて、大きな杁がある。道の北側では水車がコトコト回っている。

 追分の道標
 田畑の中を行くのどかな風景のなか、村はずれ近くまで進むと、追分になる。

『大曽根村絵図』
 分かれ道に石の道標が建っている。「右 いゐたみち」「左 江戸みち、せんくわうしみち」と刻まれている。延享元年(1744)に念仏講の人たちが建てたものだ。右に進めば瀬戸を経由して飯田に行く瀬戸街道、左に行けば中山道につながる下街道だ。「せんくわうしみち」と彫ってあるのは、信濃の善光寺へ参拝する人がたくさん通るからだ。先達に率いられた白装束の御嶽参りの一行もよく見かける。今の大曽根駅西口前あたりの昔の光景である。
〔※現在、道標はオズモールから地下街への入口(ほぼ昔の位置)に建っている〕
 

上街道(稲置街道・木曽街道)との競争
    この街道は正式の街道ではないので、一里塚や定められた宿駅はなかったが賑わっていた。
 信州や江戸方面に行くには稲置街道を通るより6里(24㎞)ほど近かったことと、高低差が少なく歩きやすかったためである。このため、自然に通行が増え、街道筋には宿や茶屋、運送業が発達していった。
 この結果、藩営の稲置街道がさびれ、沿道の小牧村などから「伝馬制度の維持にも支障をきたすようになった」として、寛永元年(1624)に藩に訴えがなされた。藩は下街道に対して「駅継(えきつぎ)による荷物の輸送は禁止、持ち馬での輸送のみ黙認する」などの規制を加えたが、経済性に勝る下街道の利用は衰えず、両街道の争いは続いた。寛政7年(1795)には藩士が江戸との行き来の時に下街道を通ることを禁止するお触れまでだしている。

 永く続いたこの争いは、明治4年(1871)に下街道の規制が解除されて自由競争になることで終わった。その後、利点の多い下街道のルートで国道19号や中央線が整備されて現在に至っている。

 
 伊藤正博 2005/01/30 2021/01/18改