名古屋の北玄関   
 清水口と稲置街道
  国道41号と出来町通が交差する所は「清水口」という交差点である。ここは名古屋台地の北端、空気が澄んでいるときは遠くに御嶽山も眺められる。江戸時代の『金鱗九十九之塵』には「越後の山々見ゆる」と書かれている。加賀の白山まで見えたのであろうが、今ではめったに見ることができない。
 ここから北へ、中山道まで延びているのが稲置街道である。
 
  稲置街道とは?   北の玄関 清水口   明治天皇も通行
  

稲置街道とは?
 
○ルートと整備時期
  稲置街道は名古屋と中山道の伏見宿(現:岐阜県御嵩町)を結ぶ街道で、途中の楽田の追分(現:犬山市字追分)で犬山への道が分岐していた。
 名古屋城東大手から「清水の大坂」と呼ばれた急坂を下り、今の国道41号を東へ横切って北北東へ向かうと左手に八王子神社が鎮座する。その先、黒川橋で堀川を越し児子宮、安栄寺とたどって矢田川、庄内川を渡り味鋺の護国院の西を北方へと続く道筋である。
 この街道を整備したのは、木曽山が藩領となった元和元年(1615)以降である。犬山には尾張藩の家老である成瀬氏の知行地と居城があった。このため犬山と木曽へ行くのに便利なように、名古屋開府以前に尾張の中心地であった清須と犬山を結ぶ旧来の道を名古屋まで延長して整備したといわれている。

○街道の名前
 稲置街道とは珍しい名だが、善師野宿や犬山村一帯は中世に稲置荘であったことから生まれた名で、明治5〜22年のあいだ、犬山は「稲置村」が正式名だったこともある。
 昔は今と異なり公式の名称がなく、人々が呼ぶ名が名称となった。このため、いろいろな呼び名があり、犬山に行けるので「犬山街道」、小牧を通ることから「小牧街道」、尾張藩領の木曽に行くのに利用されたことから「木曽街道」とも呼ぶ。尾張藩の定めた公式の街道なので「本街道」「上街道」とも呼ばれた。

下図『尾張国』
○街道の施設
 東海道などと同様に一里塚や宿場が設けられ、大規模な通行があるときに助郷(宿場常備の人馬不足を補充するため課される夫役)に出る村も決められていた。
 一里塚は今の市域内では北区長喜町一丁目にあり、宿場は小牧宿(現:小牧市)、善師野宿(現:犬山市)、土田宿(現:可児市)があった。宿には25人の人足と25匹の馬を置くこととされていた。
 
『安井村絵図』
  ○下街道との競争
 藩主が参勤交代で江戸と行き来するときにも、稲置街道と中山道を利用すると他藩の領地を通る距離が短いのでときどき利用している。
 しかし、江戸方面へ行くには、大曽根から北東にのびる非公式の下街道を利用するのに比べ6里(24㎞)ほど距離が長く、中山道での登り下りも多かった。このため、下街道を利用する庶民が増えていった。
 この結果、稲置街道の宿場経営は苦しくなり、善師野宿は「これはという宿も無い」と記録されているような状態であり、沿道の小牧村などから「伝馬制度の維持にも支障をきたすようになった」として、寛永元年(1624)に藩に訴えがなされた。藩は下街道に対して「駅継による荷物の輸送は禁止、持ち馬での輸送のみ黙認する」などの規制を加えたが、利便性に勝る下街道の利用は衰えず、両街道の争いは続いた。寛政7年(1795)には藩士が江戸との行き来の時に下街道を通ることを禁止するお触れまでだしている。
 永く続いたこの争いは、明治4年(1871)に下街道の規制が解除されて自由競争になることで終わった。その後、利点の多い下街道のルートで国道19号や中央線が整備されて現在に至っている。

 維持に困った稲置街道であるが、江戸時代に発行された『大日本行程大絵図』をはじめ全国の道路網図にも掲載されるほどの幹線道路である。
 
『大日本行程大絵図』
安政4年(1857)
   
北の玄関 清水口
 
 ○名古屋五口の一つ
 「清水口」の「口」は城下への出入口のこと。稲置街道(木曽街道)から城下へ入るには「清水町」を通るので「清水口」というわけだ。名古屋の北の玄関口である。
 かつては清水口のほかに、大曽根口(下街道)、駿河口(飯田街道)、熱田口(熱田街道)、枇杷島口(美濃街道)があり、「五口」とよばれていた。今も「口」が付いた名前が残るのは清水口だけではないだろうか。

○清水の大坂
 清水口から北へ国道41号はまっすぐに坂道を下って行くが、かつての稲置街道は清水口の交差点より西へ一本目の道として残っている。名古屋台地を上り下りするから急な坂道である。「清水の大坂」と呼ばれていた。今のような舗装がない時代に、農作物などを満載した大八車を引いて上がるのはさぞかし大変だったであろう。
 坂を下ってゆくと途中で東へと直角に曲がるが、ここはかつて「亀尾清水」という名水が湧いていたところだ。道は国道41号を渡って東側に移り北へと続いている。所々にある商店は、名古屋の北の玄関口として旅人や近隣農村地帯からの買物客で賑わったことをしめしている。江戸時代初期には道の東側は一軒の家もなく一面の田畑であったが、元禄6年(1693)頃からだんだん家が建ち始めたという。
 
 
「尾張名陽図会」
『名護屋路見大図』宝暦12午(1762)改

明治天皇も通行
 
 清水の坂を下り、瀬戸線清水駅を超えてさらに北へ進むと八王子神社がある。
 江戸時代後期になると、この神社付近まで商店が連なり、『尾張徇行記』には「清水坂下から八王子神社までは商店がたちならんでおり、従来農家であった者も商売をしている」と書かれている。

○八王子神社に立つ石碑
 平成17年まで、境内に古い小さな家が残されていた。その建物は、元は瀬戸線より少し南の街道沿いにあったものだ。わざわざ移築して保存されていたのは明治天皇ゆかりの建物だからである。
 明治13年(1880)、天皇は中山道経由で名古屋を経て京都へ巡幸された。中山道の大井宿からは下街道をとおっている。6月30日の午前7時に多治見を出発。勝川の地蔵池周辺の低湿地帯は馬車の通行が難しいので、新たに造られた道で稲置街道に出て南下。清水の坂下にあったこの建物で休憩した後、市内の東本願寺に午後3時20分に到着された。
 戦前の皇威発揚政策により、明治天皇が巡幸された全国各地に「休憩や宿泊した旧跡である」という内容を刻んだ石柱が建てられた。ここには「明治天皇清水御小休所」の碑が建っている。名古屋市内にも何か所か碑は建っているが、戦災や老朽化により建物はすでになくなっている。ここに残されていた建物も、八王子神社が鉄筋で改築されたときに、残念ながら取り壊されてしまった。
 
明治天皇ゆかりの石碑
 
       

伊藤正博 2021/1/16