東海道一大きな
『五十三次名所図会』 広重
熱 田 宿
 七里の渡し口にある熱田宿は、東海道で一番旅籠の多い宿場であった。
 宿場は、旅人が泊まったり休憩したりする機能と、物を輸送する機能とをもっている。熱田宿は名古屋に近い事もあり、旅人の宿泊だけでなく遊里的な色合いも濃い宿場であった。問屋は伝馬や人足を用意して輸送を行ったが、朱印状を持つ人や武士の利用は原価を割って行わなければならず、庶民の利用でその穴埋めをしていた。このため、伝馬制度の維持には非常に苦労している。

    熱田宿の様子   問 屋 場   本陣・脇本陣・旅籠



熱田宿の様子
◇古代から交通の要衝
 熱田は日本武尊が東征するにあたり出撃拠点になったように、古代から交通の要所であった。
 鎌倉時代から旅行者が増え源大夫社(上知我麻神社)の東付近は宿町と呼ばれるようになった。しかし裁断橋に近い地域は葦野で人家が少しあるような状態である。
 だが永禄年間(1558~70)に人家が多く建って町並ができ、今道と呼ばれた。さらに裁断橋の東地域も土盛りをして築出町が生まれている。

◇慶長6年 宿場に指定
 徳川氏が江戸幕府を開く以前の慶長6年(1601)、東海道などに宿駅の設置を命じたときに熱田は宿場に指定された。江戸から41番目の宿である。宿町も今道も共に伝馬役を務めるようになったので合わせて伝馬町と呼ばれるようになった。

◇宿場の規模
 『東海道 宿村大概帳』によると
  ・江戸からの距離……88里35丁7間(355.8㎞)
  ・宿 の 町 並……東の築出町から七里の渡し船着場まで11丁15間5尺(1.2㎞)ある。
  ・宿内の人口……10,342人(男:5,133人 女:5,209人)
  ・宿内の戸数……2,924軒

◇御朱印番所(御朱印改め)
 伝馬などを無料で使用できる朱印状が真正かどうかを調べる御朱印改め所があった。これは他の宿場にはなく熱田宿だけにあった役所である。
 元和8年(1622)に江崎清左衛門がこの職に任ぜられ、自宅を役所にして業務を行っていた。
 張られている幕は紺色で、○の中に「眞」字をデザインした紋が白抜きで染められていた。これは初代藩主義直が朱印状の真偽を糾すところなのでこの紋にしたとも、船番所の幕が新しい紋(○に八)に変わったので、古いのを転用したとも言われている。
 下役が5人いて、年俸は20石であった。


『東海道分間延絵図』



問 屋 場

 宿場には二つの機能がある。食事と寝るところを提供する宿屋機能と、運輸機能である。そのうち運輸機能を担当したのが問屋場だ。

◇人馬継立・継飛脚
 問屋場は二つの業務を行っていた。
 一つは人馬の継ぎ立てである。馬と人夫を用意しておき、求めに応じて荷物や人を次の宿場まで運ぶ業務である。もう一つは継飛脚である。幕府公用の書状や荷物を次の宿まで輸送する業務である。

 なお、各藩や民間の書状や物資は問屋場の継飛脚ではなく、藩が独自に設けた飛脚(尾張藩は七里飛脚)や民間の飛脚業者が別途行っていた。民間の飛脚は宰領の職員が問屋場に用意されている馬や人夫を使って輸送している。

◇問屋業務の執行態勢
 これらの業務を行うため、種々の業務を担当する職員が置かれていた。
 時代により異なるが江戸時代後期に編纂された『東海道 宿村大概帳』では次のようになっている。
 問屋(4名、責任者)、問屋見習(3名)、年寄(5名、問屋の補佐)、勘定役(2名)、締役(3名)、帳附(8名)、出役(2名、大名行列などを宿入口で出迎え)、見習(4名)、馬差(3名)、人馬(ママ)肝煎(6名)である。
 合計40名の大人数だが、普段の日は問屋(1名)、見習(1名)、締役(1名)、帳附(4名)、馬差(1名)、人足(ママ)肝煎(2名)の10名ほどが詰め、大きな通行があるときは全員が出勤した。

◇規定の人足と伝馬
 慶長6年(1601)に徳川氏が宿駅制度を定め、36匹の伝馬を義務付けた。
 その後寛永15年(1638)に人足100人・伝馬100匹に増やされている。この背景には寛永12年(1635)の武家諸法度改正により、参勤交代が制度化された事が挙げられる。

◇不足する人足と伝馬
 しかし熱田宿では規定数の確保が十分ではなかった。
 伝馬役の家は100軒指定されていたが、実際に馬を保有し伝馬業務をしている家は60軒だけであった。残りの40軒は、それぞれ馬1匹相当の金額を馬を保有する60軒に支払っていた。このため実際に用意されている馬は60匹だけである。慶安4年(1651)に幕府へ提出した書類では、近隣の村から徴発できる馬が203匹あるとしている。

 不足分を補填するため、藩は天和2年(1682)に尾張国内に伝馬銀を賦課し、それを原資にして新伝馬150匹を確保し飼料代として5両を支給することにした。常備の60匹では不足するときに、新伝馬を使役することにしたのである。
 その後増減があり、享保21年(1736)からは、新伝馬の数を110匹、飼料金を1匹につき3両1分、総額360両余に減らしている。

 人足も慶安4年(1651)に幕府へ出した書類では69人7分で、外に月行事役22人となっており、100人に満たない数である。不足分は近隣の人夫に前貸金を渡しておき、必要なときに問屋場へ来て働くことにしていた。
 天和2年(1682)に人足、延12,000人を確保して賃金120両を支給することになった。これも新伝馬と同様に、享保21年(1736)から賃金は1人銀6分、総額90両余に減らしている。

 大規模な通行の時には宿に備え付けの人馬ではとても足りない。このため戸部・山崎など20か村が助郷村に指定されていた。このようなときは大変な数の人馬が集まるが、これらを差配するのも問屋場の業務であった。なお、熱田宿は定助郷だけで大助郷は設けられていなかった。

◇幕府からの援助
 寛永10年(1633)から継飛脚給米が40石9升4合支給されるようになった。幕府の文書や荷物を輸送する対価である。給米は、業務に従事する船手方・伝馬方・人足方・御継飛脚の者で按分している。

 寛文5年(1665)から問屋給米が7石支給されるようになった。
 熱田宿は七里の渡しを行う船会所と伝馬町の問屋場と2か所で問屋業務をしているので、給米は両者で折半している。

 享保10年(1725)から地子代米が20石ほど幕府から支給されるようになった。
 他の宿場では伝馬業務を行う見返りに地子(土地に賦課される税金)が免除されたが、熱田宿は神宮領のため行なわれなかった。前年の幕府役人の調査で備付伝馬の数が足りない理由としてその旨を訴えたので、免除に代えて米の支給が行われることになり、今後は規定どおり100匹の馬を備えるよう申しつけられた。
実際には100匹を備えることは無理なので郡奉行に相談したところ、従来通り60匹の馬を備えておいて、幕府の調査の時には新伝馬40匹を加える事になった。

◇藩からの援助
 天和2年(1682)から、問屋帳附給金が3両ほど支給されるようになった。

◇疲弊する伝馬制度の維持
 宿場の高札には次の宿までの公定運賃が掲示されている。
 しかし全ての者にこれが適用されるのではない。朱印状を持つ者は無料で伝馬や人足を使用でき、大名行列や武士などが高札に書かれている公定運賃で利用した。一般の人は相対運賃(相談して決める価格)で利用するが、公定価格の2倍が相場であった。朱印状所持者や武士などの通行が増えると赤字の増加となり、伝馬の維持は非常に大きな負担となった。

 ★伝馬新田の開発
 伝馬制度を維持するため、寛文13年(1673)に伝馬新田(古伝馬新田、20町=19.8㏊)が開発された。
 幕府からの拝借金で開墾し、地震や台風などでたびたび堤防が決壊したが伝馬役の人々が借金で修築して維持し、宿経費の一助にした。

 ★新伝馬新田の開発
 元禄9年(1696)になると新伝馬新田(25町=24.8㏊)が開発された。
 伝馬役の人々が自力で開発したが、高波などでたびたび破壊されて修繕費用がかさみ、正徳4年(1714)に熱田材木町の江戸屋長三郎に300両で売却され、長三郎新田に名称が変わっている。
 売却金の内200両を熱田奉行所に預けて、毎年1割の20両を下付してもらい経費に充てたが、享保5年(1720)からは元金が100両に利息金は10両に減額されている。



下図 明治33年 1/50000

 明治元年(1868)に問屋場は伝馬所に改称され、3年(1870)に官(駅逓司)が管理するようになり、5年(1872)に宿駅制度が廃止された。


本陣・脇本陣・旅籠
 宿のもう一つの機能、宿泊を担うのが本陣や旅籠などである。
 『東海道 宿村大概帳』によると、熱田宿には本陣が2軒、脇本陣が1軒、旅籠屋が248軒(大:36軒、中:33軒、小:179軒)あった。
 ちなみに、旅籠の数は東海道で1番多く、2番目は桑名の120軒、3番目は岡崎の112軒である。

◇本 陣
 本陣は勅使や公家、幕府の役人・大名・旗本などが泊まる旅館で、熱田には大瀬子と伝馬町の2か所にあった。

★赤本陣
 大瀬子の本陣は南部新五左衞門が経営し通称赤本陣と呼ばれていた。
 『東海道 宿村大概帳』によると 建坪が236坪で門構・玄関付と書かれている。もう1軒の伝馬町にある通称白本陣より敷地が広い。



『熱田図』 安政(1853)以前新訂

 『小治田之真清水』には赤本陣に大名行列が到着する風景を描いた図が収録されている。
 一般の旅籠にはない門があり、門前では本陣当主が裃を着用し刀を差した姿で出迎えている。建物には玄関があり、式台には先駆けした家臣が正座して藩主到着を待っている。門や建物には大名の紋がついた幕が張られ、室内には先に到着した荷物や予備の駕篭が置かれている。
 左下の駕篭は大名が乗っている。担ぎ手は前に3人後ろに3人の6人だ。駕篭の両脇は護衛の武士が固めている。威儀を正した行列で、今本陣に到着しようとしている光景である。


『小治田之真清水』

 明治3年(1870)に本陣制度が廃止された。この年、南部新五左衛門夫人のつげが、旧本陣の一部を使い女紅場を開設した。遊女を対象に読み・書き・そろばんの外、裁縫・手芸・茶道・生花などを教えている。
5年(1872)には第26義校もここに設置された。

 ★白本陣
 神戸町にある赤本陣に対し、伝馬町のは白本陣と呼ばれた。森田八郎右衛門が経営し、建坪が178坪で門構と玄関が設けられていた。

◇脇本陣
 『東海道 宿村大概帳』では1か所あり、建坪が103坪で本陣と同様に門構えと玄関がしつらえられた建物であった。しかし『東海道分間延絵図』では伝馬町に2か所描かれている。この他に脇本陣代が数軒あった。

◇熱田宿の飯盛女
 万治2年(1659)に、東海道の宿に対し遊女禁止令が出されたので遊女は置かれなくなり、代わって飯盛女が生まれたが、それも享保3年(1718)には各旅籠屋に2人と規制されている。
 明和9年(1772)に書かれた『二五里(にごり)水』に、伝馬町には遊女屋が48軒あると記載されている。

 享和2年(1802)6月に、曲亭馬琴が旅の途中熱田宿に立ち寄り、『羈旅漫録』には次のように書かれている。
 「宮と島見(不明)に一両年前よりめしもりをおくことをゆるさる。吉田おか崎には似ずいづれも醜婦なり。名古屋人これをおかめと渾名せり。妓楼もあれど、旅人はその旅店へもよぶよし」。

 飯盛女を置いているのは飯盛旅籠、置いていないのは平旅籠と呼ばれた。文化元年(1804)になると平旅籠を組織した「浪花組」がつくられた。安心して泊まれる指定旅館制度である。

 なお『殿々奴節根元集』によると、文化2年(1805)に「はしりがね」が許可された。はしりがねとは、洗濯物針師兼で洗濯や繕い物をする人という名目だが、船上の娼妓のことである。
 また同書には、熱田宿での飯盛女(娼妓)は、文化3年(1806)に許可され、1軒に2人置くことができるようになり三味線を弾くことも許された。1人につき7分5厘を晦日(みそか)に宿の年寄が集金して上納する事になっている。150人ほどの飯盛女が居ると書かれている。

 『旅枕五十三次』〔文政(1818~30)以降出版〕には、宮宿は「遊女街道一なり」と書かれ、宿場の遊里化が進んでいたようである。




 2023/03/27