進む新田開発
海へ伸びる堀川
 江戸時代には熱田の海で盛んに新田開発が行われ、これに伴い堀川の河口は海へと伸びていった。明治後期の名古屋築港に伴い埋立地が造られ、さらに河口は南下して今の堀川の姿になった。





◇新田開発で 河口は南へ
 江戸時代の藩財政は、農地から上がる年貢がほとんどを占めている。増収を図るため、荒れ地の開墾や干拓による農地の拡大が行なわれた。

 熱田の前には広大な海が広がっていた。この海には、木曽川や庄内川などの河川が流下する大量の土砂が流れ込むが、鳥羽と伊良湖崎の間を口とする袋状の伊勢湾最奥部なので外洋へ排出されにくく、土砂が堆積しやすい場所であった。
 このため干潟ができ、それを取り囲むように堤防を築くと干拓新田を造ることができる。 それから数十年たつと新田の前に再び干潟が生まれ、その地も干拓され新田になった。このようにして、順次新田が拡張され陸が海へ張り出していった。

 江戸時代初期に開削された堀川の河口は白鳥であったが、新田開発によりだんだんと河口は南へ延びていった。明治になり築港が行なわれると1号地や2号地など埋め立てによる土地の造成が行なわれ、それによって河口は更に南へ延伸され、明治43年(1910)の5号地築造により今の姿になった。

   ◇海へと伸びる堀川〔下図:大正9年、1/25000〕


① 1610年(堀川開削)頃
河口は白鳥。
七里の渡し舟はまっすぐ西へ


② 1650年頃
右岸に中野外・熱田新田


③ 1700年頃
右岸に船方、左岸に仁右衛門
・伝馬・長三郎新田


④ 1750年頃
左岸に図書新田などができ、河口は南へ



⑤ 1800年頃
右岸に広大な熱田前新田。
七里の渡し舟は大きく迂回


⑥ 1850年頃
作良・道徳前新田ができ、
河口は更に南へ


⑦ 1900年頃
旧山崎川は開発され氷室新田に


⑧ 1920年頃
築港に伴い一号地や五号地などができ、
今の河口に





 2022/10/15