進む新田開発 問題も
堀川左岸の新田等
 遠浅で土砂が堆積しやすい熱田の海では、江戸時代から明治にかけて繰り返し新田開発や埋立が行われ、広大な陸地が誕生した。
 藩営の事業も一部あるが、多くは富裕な商人や農民、神官などが行っている。
 良いことずくめのように思われる新田開発だが、旧来からの農地を耕す農民は強い力を持つ新田地主に圧迫されて困窮零落することもあり、藩の財政改善にも役に立たないということから反対意見もあった。
 また、干拓新田は干潮時には陸地となる干潟を取り囲むように堤防を築いて造られている。このため0m地帯で、水害に遭いやすい地域でもある。


    進む新田開発        新田開発には 反対論も  新田は低湿地帯



進む新田開発

下図 明治24年 1/20000
◇仁右衛門新田
 ・開発年 ……元禄6年(1693)
 ・耕地面積……1町5反3畝1歩(1.52㏊)
 ※『大正昭和名古屋市史』の新田開発図では、宝暦5年(1755)としているが、
   この年は0.22㏊が追加された年なので間違い。

◇伝馬新田(古伝馬新田)
 ・開発年 ……寛文13年(1673)
 ・耕地面積……20町7反4畝19歩(20.57㏊)
 ・沿  革……熱田宿の伝馬制度維持のため、幕府からの拝借金により開発。
        たびたび堤防が決壊 → 伝馬役人が自力で修復した。
         宝永4年(1707)の大地震、正徳4年(1714)、享保七年(1722)の烈風など

長三郎新田(新伝馬新田)
 ・開発年 ……『尾張徇行記』では元禄時代(1688~1704)
        『大正昭和名古屋市史』の地図では元禄9年(1696) 
 ・耕地面積……17町9反8畝2歩(17.83㏊)
 ・沿  革……熱田宿の伝馬役人が開発したので、当初は新伝馬新田と呼ばれていた。
        その後、たびたび天災で堤防が決壊。
         正徳4年(1714)の決壊時、伝馬役人に修復するだけの資力がなかった
           → 熱田材木町の江戸屋長三郎に300両で売却 → 長三郎新田に名称が変わる
        売却代金として受け取った300両の内200両を熱田奉行に預ける
         → 利子として毎年20両を受け取り伝馬の経費に充当
          → 享保5年(1720)、貨幣相場の下落により預かり金は100両に減額
           → 受け取る利子も十両に減額
 ・人  家……1800年前後、19戸で94人が暮らしていた。

◇巾着新田
 ・開発年 ……元禄14年(1701)
 ・耕地面積……1町7反7畝24歩(1.76六㏊) 
 ・沿  革……長者町の孫七(本地村弥平とも)が開発。
        堤防が弱く潮入になるので、検地が行なわれたのは開発から54年後の宝暦5年(1755)
 ・人  家……1800年前後、農地だけで人家はなかった。

◇図書(ずしょ)新田
 ・開発年 ……正徳3年(1713)
 ・耕地面積……9町5反(9.42㏊)余
 ・沿  革……加藤図書助(東加藤)が所有する屋敷前の渚を、大津町の小関彦兵衛が開発

◇戸部下新田(祐竹新田
 ・開発年 ……享保13年(1728)
 ・耕地面積……10町5反3畝12歩(10.45㏊)
 ・沿  革……元禄11年(1698)、
         井戸田村中右衛門 戸部村治左衛門 山崎村理兵衛 熱田松左衛門が開発に着手。
        その後高潮で堤防が決壊し修繕
         →負担に耐えきれず、享保13年(1728)に赤塚町の嘉兵衛へ譲渡
           →1800年前後には納屋町の庄蔵が所有
        当初の名称……祐築新田
         → 寛保2年(1742)の竿入(年貢を決めるため藩が行う測量)後に戸部下新田
 ・人   家……1800年前後、17戸で87人が暮らしていた

◇忠治新田
 ・開発年 ……享保20年(1735)
 ・耕地面積……9町5反14歩(9.43㏊)
 ・沿  革……享保12年(1727)に熱田神宮神官の田島肥後が開発許可を得て始めたが開発できず
         → 熱田田中町の忠治が譲り受けて開発

◇道徳新田(戸部下前新田・御替地新田)
 ・開発年 ……寛保元年(1741)
 ・耕地面積……20町5反3畝19歩(20.37㏊)
 ・沿  革……尾張藩が開発。
        天白古川新田の替地:
         享保13年(1728)に天白川を山崎川に流れ込むように瀬替
          → 天白川の旧下流部……開発して天白古川新田
           → 山崎川では排水しきれず、たびたび氾濫
            → 天白川を元の流れに戻す
             → 天白古川新田の替地としてこの新田を開発……御替地新田の呼称
        最初の名称:戸部下前新田 → 文化9年(1812)から道徳新田

◇紀左衛門新田(喜左衛門新田)
 ・開発年 ……宝暦4年(1754)
 ・耕地面積……12町7畝16歩(11.97㏊)
 ・沿  革……加藤紀左衛門(西加藤の通称)が開発
 ・人  家……1800年前後、12戸で55人が暮らしていた

◇道徳前新田(御小納戸の新田)
 ・開発年 ……文政4年(1821)
 ・開発面積……125町(123㏊)
 ・沿  革……鷲尾善吉が開発
         → 風水害で堤防の決壊が多く、藩の御小納戸へ譲渡
          → 明治以降は広い範囲が尾張徳川家の所有地

◇氷室新田(瀬替新田)
 ・開発年 ……安政3年(1856)  
 ・沿  革……名古屋の若宮八幡社神官である氷室長冬が開発
         → 山崎川を今の流れに瀬替(流路の変更)し、川跡を新田開発
          → 旧山崎川が新田に変わったので周辺新田の排水が悪くなり、苦情対応に追われた
 ・人  家……開発時、15戸が入植

◇氷室外新田
 ・開発年 ……明治元年(1868)  
 ・沿  革……名古屋伝馬町の成平佐々が開発

◇明治新田
 ・開発年 ……明治11年(1878)
 ・耕地面積……不明。米200石の収穫
 ・沿  革……明治10年に愛知県技師の黒川治愿が熱田湊を改修。
         航路部分を浚渫した土砂を使って明治新田を造成
        新田としての開発……小宮山峰伝

◇五号地
 ・開発年 ……明治43年(1910)




新田開発には 反対論も
 新田開発がなされ農地が増えると、農家の次男・三男などが入植して職を得ることができ、藩は年貢の増収となり、良いことずくめのように思われる。
 しかし、実際には色々な弊害もあり、旧農地の衰退などの視点から反対論もあった。

 人見璣邑(きゆう。桼・弥右衛門、1729~97)は、9代藩主宗睦(むねちか)のもとで治水や農業振興に尽力した。新川の開削にあたっては参政として普請奉行の水野士淳(千之右衛門)とともに活躍した藩士である。

◇人見璣邑の新田開発反対論

・肥料や農業用水は、それまでの農地に応じた量しかない。新田開発で農地が増えるとそれまでの農地は肥料などが不足し収穫が減り年貢も減る

・新田の開発から一定期間は非常に安い年貢をかける。これにより開発者は大きな利益を得るが、期間経過後も色々な理由を付け役人に賄賂を贈り延長してもらう。開発者は莫大な利益を得るが藩の年貢は増えない。

・開発を行う富者は、その威勢で勝手に用水を引き、高い金額で肥料を購入する。旧来の農地を耕す小民は水も肥料も不足がちになり収穫が上がらず、貧しくなって富民の下人同様になってゆく。やがて一家離散や乞食になって死んでしまう。

・新田開発は大災害などで人々が生きてゆくことが難しいとき以外には君子は行わず、上にへつらう賤しい役人が好むことなのは、今も昔も同じである。




新田地帯は低湿地
◇干拓新田の地面は干潟の高さ
 新田は干拓により造られた陸地である。土砂が堆積してできた干潟は、干潮になると海面から姿を現し満潮には海中に没してしまう場所である。この干潟を取り囲むように堤防を築いて海水が浸入しないようにしたのが干拓地である。

◇標高がマイナス地帯
 このため、干拓新田は標高が非常に低い場所である。『南区誌』には「東海道本線の西側は一帯の低地となっていて海抜が0.5メートルから1.0メートルぐらいで」と書かれている。
 地形図の三角点や水準点をみるとそのとおりだが、これらの施設は測量上必要な場所や管理しやすい場所に設けられており必ずしも地域の実態を表しているわけではない。現在は国土地理院のデジタル標高地図でピンポイントの標高を知ることができる。それにより色分けした図が次の図である。道徳前新田が一番低くマイナス0.9mほどで、そのほかの地域もマイナスの地域が広く分布している。このため伊勢湾台風では広い区域が浸水し、なかなか水が引かなかった。

    
国土地理院デジタル標高地図で作製
航空レーザー測量のため、川や池などの水面は測量できず、不正確な表示になる
明治新田や5号地は干拓ではなく埋立地なので標高が少し高い。

   ◇大潮の満潮 海面下
 海面の高さを表す潮位は標高ではなく「NP」(名古屋プレート)を基準としている。標高は東京湾の平均海面が0mだが、NPは、名古屋港の朔望平均干潮面が0mで、標高より1.412m低い。

 名古屋港の過去最高潮位は伊勢湾台風のNP5.31mだが、これは標高3.9mの高さまで海面が上がったと言うことである。標高がマイナス0.9mの場所は、水深4.8mになったということだ。
 ちなみに令和2年に海面が一番高くなるのは、潮位表によると8月12日と9月10日で、標高に換算すると1.22mである。もし、この時に堤防がなければ、標高1.22mより低い地域は浸水することになる。この地域は、今も相当の低地なのである。
 
名古屋港の潮位




 2023/09/15