出船・入船を見張る
堀川船番所
 江戸時代、堀川には出入りする船を見張る船番所が設けられていた。


    城下の治安維持 船番所   由井正雪の乱がきっかけ?   上下流 2か所の番所で監視



城下の治安維持 船番所
 城下町の名古屋は不審者が入り込まないように、色々な対策が採られていた。
 主な街道の城下入口には大木戸があり、町の辻々には110か所もの木戸があり、午後6時に閉鎖、10時には潜り戸も閉じられる。このほか武家地には60か所もの辻番所があり常時番をしている。不審者がうろつくのを防ぐためだ。

 このように治安の維持に細心の注意が払われており、堀川を通って不審な人や物が城下に入らないように堀川の通航も厳しい規制が布かれていた。通航には許可が必要で、川岸に「船番所」が設けられていた



由井正雪の乱がきっかけ?
 船番所が最初に置かれたのは、承応2年(1653)のことである。
 この年に設置された理由は明らかでないが、慶安4年(1651)7月に由井正雪の乱が起き、残党が七里の渡しを使って逃亡する事件があった。これにより翌慶安5年(1652)に熱田に船番所が置かれ、七里の渡しを出入りする船や乗船客の取り調べを行うようになり、夜間航行は禁止され、乗船名簿の提出が義務づけられた。
 その翌年に堀川の船番所が設置されているので、この事件を教訓として設けられたのかもしれない。


上下流 2か所の番所で監視

上流の番所


『名古屋路見大図』
宝暦12午(1762)改
 ◇上下流の2か所
 最初は上流の番所1か所だけであったが、貞享3年(1686)になると下流にも番所が増設され、上・下流2か所の態勢になった。

 上流の番所は、当初は今の錦橋の所に設けられ、後に納屋橋南(現:天王崎橋下流)の左岸に移り、下流の番所は尾頭橋の南(現在の瓶屋橋付近)の右岸にあった。

 堀川に入る船は、尾頭の番所で入船の切手(通行証)を受け取り、出る時には天王崎の番所で入る時にもらった入船の切手を提出して、引き換えに出船の切手が渡されることになっていた。


 
下流の番所


『熱田神領字入図』
文化元年(1804)
◇荷物や乗船者の検査・川役銭の徴収・夜間通航の監視
 船番所には御船奉行配下の者2名が、上り下りする船の荷物や乗船者の検査、川役銭(かわやくせん)の徴収を行い、禁止されている夜間に通航する船がいないか監視していたのである。
 年貢米を積んだ船は、代官や庄屋の送り状を持っているかどうかを検査され、商人が取引する貨物などは、荷主・船主・貨物の量などを御番所に届け出て検査を受け切手を発行してもらったのである。文化年間(1804〜18)から、問屋経由で扱うことになっている荷を積んだ船は、あらかじめ届けてある問屋の印と照合し、印が合わなければ荷を没収する業務も行っている。

◇幕末……夜間通航許可
 嘉永6年(1853)に夕七つ(午後4時)以降も船番所で事務を行うことにし、夜間の通航ができるようになった。

◇明治……川役銭・上流の番所廃止
 明治元年(1868)には川役銭の徴収を廃止するとともに天王崎の番所が廃止されたが、尾頭の番所は貨物出入りの監視のために残され、その廃止の時期は不明である。




 2021/07/10