もう一つの大運河
荒子川運河構想
 昭和初期から広大な水面を誇る中川運河と同規模の荒子川運河が計画され、一部は掘削された。戦争による中断を経て戦後の復興が進むなか、大きく計画変更されて事業が再開したが、艀からトラックへと輸送が変わり、完成することなく計画は廃止された。今は中川運河支線の名称に名残を残している。


    中川運河と同規模 荒子川運河計画   上流端 八田駅近くに変更   工事開始と計画廃止



中川運河と同規模 荒子川運河計画

◇運河網計画……大運河 荒子川運河
 大正13年(1924)に運河網計画が都市計画決定された。大江川・山崎川・中川・荒子川を運河に改修し、これに堀川を加えた5大幹線とこれらを相互に連絡する横堀運河も造り、名古屋の南部に運河網を整備する計画である。最初に造られたのが中川運河で、昭和7年(1932)に全通している。

 中川運河の西側で、並行して北へ延びる荒子川運河も、中川運河と同規模の大運河として計画された。下流部の幅は50間(91m)、中流部は35間(63.7m)、上流部は20間(36.4m)の計画であった。

◇昭和初期……土地区画整備事業で開削進む
 昭和初期(1926~)になると周辺地域でいくつもの土地区画整理組合がつくられ、市街化に向けた地域整備が行われ始めた。事業を進めるなかで、運河網計画に従って運河が開削され、掘削土は低湿地帯である周辺地域の盛り土に利用された。この結果、切れ切れではあるが荒子川運河や横堀運河が一部できてきた。


『名古屋新地図』 大正13年
上流部の幅50間の区間は『大
正昭和名古屋市史』では35間


土地区画整理事業で整備が進んでいた荒子川運河
 昭和31年 1/10000



上流端 八田駅近くに変更
 太平洋戦争による壊滅的な打撃から復興する過程で、策定から30年近く経過している運河網計画の再検討が行われた。その結果、大江川運河計画は廃止され、距離が長く事業効果が期待できる荒子川運河計画が注目された。

 再検討の結果大きな計画変更が行われた。水路は荒子川とほぼ同じ位置に開削し、大正の計画では上流端は篠原橋付近で中川運河に接続する構想であったが、関西本線の八田駅の近くに船溜を設け堀留にすることになった。八田駅に堀留を計画したのは、鉄道輸送との連結改善のためである。日中戦争さなかの昭和14年(1939)に、輸送力増強のため稲沢操車場に加えて八田駅にも操車場を設け、併せて南方貨物線を新設する構想がたてられていた。しかし、戦争の激化により棚上げになり、戦後も引き続き検討が進められていた背景があったからである。
 また途中で分岐し中川運河と連絡する水路と、庄内川に連絡する水路を設ける事にした。

 昭和28年(1953)10月に計画変更が決まり、29年(1954)7月に都市計画事業に決定した。


変更後の荒子川運河計画  概念図
下図『最新名古屋市地図』
昭和26年



工事開始と計画廃止
◇支線の開削始まる
 昭和30年(1955)3月に、荒子川運河と中川運河を結ぶ支線の開削が失業対策事業として始まった。事業は名古屋港管理組合が名古屋市から委託されて行っている。

 戦後の計画変更により、大正の荒子川運河計画とはまったく異なる位置に開削される事になり、それまで土地区画整理組合が開削してきた水路は不要の物に化した。掘られた水路は永い間、池のまま放置されていたという。

◇トラック輸送が興隆 運河計画は廃止
 荒子川と中川運河を結ぶ支線(寛政運河、現:荒子川運河)は完成した。しかし昭和30年代後半(1960~)になると急速に舟運からトラック輸送へ転換していった。
 このため開削事業は中断し、昭和52年(1977)9月に荒子川運河計画は廃止された。現在は中川運河から荒子川近くまでの水路が、荒子川運河として残っている。




 2023/12/01