名古屋の北部・西部から熱田前新田にいたる広大な田に用水を送っていたのが庄内用水である。必要とする大量の水を確保するのは大変な努力が必要であった。
 庄内用水の長い歴史は、その時代に生きた人々が持てる力と技術を注いで、一滴でも多くの水を確保しようとした努力の歴史である。

    江戸時代   明治時代   大正時代
    昭和時代以降    


江戸時代
 
◆元亀・天正年間(1570~92)
   この頃 ・庄内用水が開削される
◆慶長15年(1610)
閏2月 ・名古屋築城に着手
◆慶長19年(1614)
この年 ・稲生村(現:西区稲生町)に定井(恒久的な取水施設)が造られる
◆寛永19年(1642)
この年 ・庄内用水取水地点の追加
 稲葉地井筋に近い日比津村(現:中村区日比津町)にも取水施設が造られる。これにより稲生村と日比津村の2ヵ所で庄内川から取水
◆正保3年(1646)
この年 ・熱田新田の干拓により必要となる水量を確保するため、設計が行われる。翌年着工。約493町歩。
 用水確保のため、木津用水の末流を庄内川に入れ、庄内川から稲生村の北と、枇杷島の橋の南の2か所に杁を伏せて取水。
『寛永覚書』「・・・新田へ水懸りに、犬山の西、木津に大杁を伏せ、木曽川の水をとりて、江筋を庄内川へ掘入、稲生村の北と枇杷島の橋の南と二ヶ所に川中に石を畳上げて、堤に杁を伏せ、二筋へ水を直ちに新田にかかる。……」
◆正保4年(1647)
この年 ・藩営事業として熱田新田の干拓工事に着手
・庄内用水取水地点の変更
 日比津村にあった取水口を、稲生村に移設
◆慶安2年(1649)
この年 ・熱田新田が竣工
◆慶安3年(1650)
この年 ・木津用水の杁が完成
◆寛文3年(1663)  
  この年 ・新木津用水の開削
 木津用水より東部の地域を灌漑し、流末が八田川経由で庄内川に流入する新木津用水の水路が開削される。
・御用水などの開削
 名古屋城のお堀へ水を供給する「御用水」が開削され、庄内川からの取水の為に川村(現:守山区)に定井が設けられる。庄内川の水を矢田川に流入させ、辻村(現:北区)で矢田川の水と合わせて取水し、お堀へ導水。
・辻村、川村定井の杁守の給料を支給
 御用水を庄内川から取水する為、川村(現:守山区川村町)に造られた定井(取水施設)の杁守(杁を操作する人)の給料として米1石が、また辻村(現:北区辻町)の定井の給料として米3石が、尾張藩より支給されるようになった。
◆寛文4年(1664)
  この年 ・新木津用水が完成
◆寛文5年(1665)
  6 御国奉行衆から、用水に関する取締などについて、関係役人に申し渡しが行われる
◆寛文7年(1667) 
  この年 御用水路の掘替
 御用水の川村の取水口から名古屋城のお堀までの水路の堀替が藩主から指示される。水路に土砂が堆積したための浚渫事業。この事業の総奉行は野崎主税外

・庄内用水取水地点の変更(稲生村→名塚村)
 稲生村の2か所の取水口の内、下の取水口を廃止し、名塚村に移設。これにより、庄内用水の取水口は、稲生村と名塚村の2口となる。
◆延宝4年(1676)  
  この年 御用水の辻井道が出来る
・御用水の矢田川伏越が出来る
 庄内川で取水した御用水の水を矢田川の下をくぐって送水する為の水路トンネル(矢田川伏越)が出来る。
 長さ97間(177m)、幅9尺(2.7m)、高さ3尺(0.9m)という大規模な施設であった。
◆延宝8年(1680)
  この年 ・川村杁の井高
 此川村杁村々用水にも被下、用水井高8,285石1斗5升、村数22ケ村なり。
・御用水の矢田川伏越が瀬古(現:守山区)側で延長される。
◆貞享3年(1686) 
  この年 ・川村の御用水路が堀替えられる
◆享保12年(1727)
  この年 ・新たに杁奉行が置かれる。
 従来は事柄により杁方の担当と代官の担当に分かれ重複して担当しているものもあったが、これ以後は杁の築造から取水操作などすべて杁奉行が管理することになった。
◆享保14年(1729)
  1月 ・あちらこちらの用水で取水や水路に関し、幕府への訴訟があったので、幕府からお触れが出される
◆享保15年(1730)
  この年 ・徳川宗春(35才)が尾張藩7代藩主となる
◆元文4年(1739)
  この年 ・徳川宗春(44才)が隠居謹慎を命ぜられ、江戸から出立、三の丸東大手内の御屋敷に入る
◆寛保2年(1742)
  3月 ・稲生定井を川村定井へ振替
 稲生村の杁(取水施設)に砂が溜まり、水路にも砂が流れ込んで水が流れにくくなった。このため取水地点を上流の川村(現:守山区)に変更。
 これに伴い、川村に新たに長さ12間(21.8m)巾9尺(2.7m)高さ5尺(1.5m)と、巾1間(1.8m)高さ4尺(1.2m)の2つの杁を造り、瀬古村(現:守山区)と山田村(現:北区)の間の矢田川には川底に長さ112間(203.8m)の伏越(水路トンネル)を設け、山田村に新たに水路を掘って大幸川につなぎ、従来の庄内用水に送水するようにした。3月に工事が完了。
 稲生村に3つあった従来の杁は、長さ18間(32.8m)巾2間(3.6m)高5尺(1.5m)のものを残して川村より来る水が不足するときの補助にし、他の2つは廃止した
◆明和5年(1768)
  この年 ・稲生村に従来からあった杁の西の方に新たに杁が設けられ、水路を掘って西井筋につなぐ(その後、従来からの東の杁は廃止される)
◆この頃 
    ・この頃の庄内用水の井組として次のものがあった。
 稲葉地井組、川村井組、於伊勢川井組、中野高畑水筒井組、中野川井組、稲生西中東井組、米野井組、荒子川井組、
◆安永5年(1776)
  この年 庄内用水中井筋の浚渫と立切設置。
 中井筋を深く浚渫したため水面が低くなり田へ引水しにくくなったので、上中村(現:中村区)に立切(水位をせき上げる施設)を設ける。
◆天明元年(1781) 
  この年  用水奉行の廃止
 代官制度の改革に伴い用水奉行が廃止され、従来、用水奉行が行っていた仕事は代官の管轄になる。また、杁奉行も主要な杁・橋の普請・修復のみで、その他の事はすべて代官の管轄に変わった。
◆天明4年(1784)
  3月  木津用水の浚渫と通船木津用水の浚渫が行われ、舟の運航ができるようになる。この浚渫事業は尾張藩の失業対策として行われた。
◆寛政3年(1791) 
  この年  ・庄内用水の井元替
 ○(押切村の)用水は川村定井組52石8斗。是は寛政3年(1791)亥年庄内井元替に付、井高吟味の上助水高の分書出す。
 ○西井筋庄内井高310石、是は同年井元替に付東井組より西井組へ入。
◆寛政4年(1792) 
  この年 ・庄内用水の流路変更(御用水と一体化)
 用水に砂が流入し水量も不足するので、川村(現:守山区)で取水し名古屋城のお堀に水を送っていた御用水の水路を、それまでの幅2間(3.6m)から5間(9.1m)に拡幅し、巾2間(3.6m)の杁を増設して、御用水と庄内用水を合わせて送水するようにした。
 瀬古村(現:守山区)で庄内用水と御用水を分流させ、御用水は矢田川を伏せ越してお城へ、庄内用水は西へと流した。庄内用水路は、一部区間は従来からあった水路を利用し、また成願寺・中切・福徳の村内は新たに水路を開削(その後:三郷悪水路)した。福徳村(現:北区福徳町)と稲生村(現:西区稲生町)の間の矢田川は巾2間(3.6m)の伏越(水路トンネル)でくぐり、従来からの用水路につないだ。また、東井筋へは巾9尺(2.7m)の杁で分流させた。これにより、すべての用水路に水が行き渡るようになり、はるか南部の海岸地帯の新田まで用水が届くようになった。
 御国奉行水野千之右衛門、杁奉行武藤加六がこの事業を担当。
◆享和元年(1801)
  1月8日 ・熱田前新田の干拓堤防締切完了
◆享和3年(1803) 
  この年 ・従来おかれていた杁奉行を廃止。国奉行と勘定奉行を合体し、その下に水奉行と水方役所を置いた
◆文政5年(1822)頃
  ・庄内用水の井筋ごとの灌漑区域
○東井筋(江川)……上は稲生村下は熱田新田まで灌漑。
○西井筋(稲葉地井筋)……名塚村・新福寺村・堀越村・児玉村・枇杷島村・日比津村・稲葉地村・岩塚村・野田村・打出村・中須村・法華村・下起村を経由して、熱田新田・甚兵衛新田まで灌漑。
○中井筋……日比津村で西井筋から分流し、上中村・下中村・高須加村・万町村・小塚村・本郷村・荒子村・中島新田を灌漑し、熱田新田二十番割より、土古山新田・熱田前新田まで灌漑。
○米野井筋……日比津村で西井筋より分流し、大秋村・中島村・上米野村・下米野村を経て、露橋村で笈瀬川へ流入。
◆この頃
    『尾張名所図会』に、庄内用水の矢田川伏越の姿が次のように書かれている。
 「伏越杁 同村(稲生村)のうち、光音寺村境にあり。福徳用水川(後:三郷悪水路)を庄内へ引かんため、矢田川堤とも三町余の地の下に、78尺の大杁を二筋埋め伏せたる長杁なり。其大造りなる事他に比類少し。二筋の川杁の南にて落合ひ一筋となる。すなはち惣兵衛川是なり」
〔注:矢田川は昭和5年(1930)に流路の大幅な変更工事が行われており、この頃は現在の福徳町、中切町、成願寺などの南を流れていた。〕



明治時代
 
◆明治10年(1877)
   10月10日 ・黒川の開削と庄内用水の取水地点の変更
 これまで尾張北部と名古屋・熱田を結ぶ交通は非常に便が悪く、舟により木曽川を桑名へ下り海上を通って熱田に到る大回りのルートか、不完全な道路を徒歩や馬などで通行するしかない状態であった。
 この改善と用水の確保のため、犬山で木曽川から取水し流末が庄内川に流れ込んでいる、木津用水・新木津用水を改修し、併せて新木津用水の流末(八田川)が庄内川に流入する地点の対岸に新しい取水施設を設け、ここより新たな水路を開削して堀川につなぎ舟が通航できるようにするとともに、庄内用水・御用水の安定した通水を確保する計画が愛知県技師の黒川治愿(はるよし)により立案され、県令安場保和の了解を得て着手された。
 矢田川には長さ93間余り(169m)の伏越(水路トンネル)2条が川底に設けられ、矢田川左岸で分水した。ここより西に向けて稲生村(現:西区稲生町)まで新たな水路を掘って庄内用水に接続している。また南西に向け堀川までは新設の水路(黒川)により堀川へ接続した。
 工事費は県税17,488円、村費22,680円、計39,168円。
◆明治12年(1879)
9月 ・木津用水取水口改良
 犬山にある木津用水の取水口では、毎年の灌漑時期になると木曽川に石を積んで流水を塞き上げて取水していた。出水のたびに破損し十分な取水ができないので、黒川治愿は木曽川の中に長さ350間(637m)の石枠の設置と取水口前に長さ20間(36m)の沈床を設置する事業を実施。
◆明治15年(1882)
3月 ・木津用水の西元杁の改築工事が完了
◆明治16年(1883)
5月 ・新木津用水改修工事が始まる
この年 ・木津用水の改修に対し、庄内用水灌漑区域内の一部町村が寄付
 木津用水の改修に対し、庄内用水灌漑区域の内、愛知郡の村町が工事費として2,100円を挙出。
 これは木津用水から庄内用水へ助水がなされるための支出であり、これ以後も毎年100円を支出
・大干ばつになる
◆明治17年(1884)
  5月 新木津用水の水路改修二期工事として、春日井村から八田川合流点までの改修が完了
◆明治18年(1885)
  この年 庄内用水水利土功会がつくられ、庄内用水の管理を行う
◆明治19年(1886)
  2月6日 犬山と名古屋を木津用水、新木津用水、庄内用水(守山区内)、黒川、堀川を経由し舟で結ぶ愛船株式会社の営業が許可される
  9月26日   愛船株式会社が営業開始
 愛船株式会社の開業式が木津元樋前で行われ、来賓は名古屋鎮台の黒川通軌中将を始め300名。当時の県知事勝間田稔は「先に7日余り(注、犬山より伊勢長島および桑名を経て水路を名古屋に達する日程)を費やしたる水程は、わずか4時間にして達するを得べし。」と祝辞を述べた。
 来賓一同は舟で木津用水や黒川などを通って名古屋に下り、納屋橋下流西岸にあった得月楼で宴会を行なった。
 営業は、毎年9月20日の彼岸から翌年の6月11日(夏至10日前)まで。これ以外の期間は、田への取水のために水路に堰が設けられるので通航できなかった。
◆明治22年(1889)
  6月 ・水利組合条例(法律第46号)が公布されたが施行されなかった
  10月1日 ・名古屋に市制が施行され、従来の名古屋区から名古屋市となる
◆明治23年(1890)  
  3月18日 ・名古屋市に土木課始め7課(庶務・戸籍・学校衛生・土木・地理・税務・収入)を設置
◆明治24年(1891)
  10月28日 ・濃尾地震発生
 午前6時40分に濃尾地震発生。尾張地方でも死者2,331人をだす大地震で、庄内用水関係施設でも元杁樋と矢田川伏越樋が破損。
◆明治25年(1892)  
  この年  ・前年の濃尾地震で破損した庄内用水の元杁樋と矢田川伏越樋を木造で改築
◆明治26年(1893)  
  ・大干ばつになる
◆明治29年(1896)
  10月1日 ・愛知県令が、水利組合条例を施行する旨を令達
◆明治32年(1899)
  この年 ・庄内用水普通水利組合が設立され、庄内用水の管理を始める。
 萩野村・杉村・六郷村の一部・金城村・庄内村・枇杷島村・中村・愛知町・常盤村・八幡村・荒子村・小碓村・下之一色村・名古屋市の一部が加入。
◆明治32年(1899)  
  この年  ・庄内用水の灌漑面積は、3,919町歩(3886.86ha)
◆明治37年(1904)
  7月11日 ・暴風雨により、庄内川が破堤し、庄内用水を洪水が流下
 庄内川の堤防が暴風雨により高間村大字瀬古(現:守山区)で破堤。大量の洪水が庄内用水(守山区内)を流下してきたので、下流にある矢田川伏越の南側の樋門(萩野村大字辻、現:北区辻町)を閉鎖して食い止めようとしたが、樋門の中蛇柱と上戸を破壊し、洪水は猛烈に侵入。このため数千人の人夫が集まって水防活動をおこなった。
  12月18日 ・萩野村(現:北区)の庄内用水東ノ杁改築に着手
 この年7月の洪水で、矢田川伏越の樋門が破損したため「萩野村大字辻東ノ杁留杁改築工事」が庄内用水普通水利組合により開始される。
 工事費:1,329円32銭8厘
 完 成:明治38年2月26日
 構 造:木造
  この年 ・庄内用水の灌漑面積は、3,940町4反27歩(3908.10ha)
◆明治39年(1906) 
  この年 ・庄内用水の灌漑面積は、3,919町5反8畝28歩(3887.45ha)
◆明治40年(1907)
  12月18日 ・三間樋の人造石による改築に着手
 矢田川伏越の南出口で、庄内川から導水した水を庄内用水・黒川・御用水などに分水していたが、庄内用水へ分水する樋門(庄内用水三間樋)の人造石による改築に着手。
 工事費:2,133円25銭7厘
 完 成:明治41年3月31日
  この年  ・庄内用水の灌漑面積は、3,919町7反2歩(3887.56ha)
◆明治41年(1908) 
  4月18日 ・三間樋の南北の護岸を石垣で築造。裏込に人造石を使用。
 完成:明治41年4月25日 
  この年 ・庄内用水の灌漑面積は、3,917町1反6歩(3884.98ha)
◆明治42年(1909) 
  ・大干ばつになり、庄内用水は木津用水から助水を受ける
 この年は70日以上降雨がなく大干ばつになり、灌漑区域の西南部の地域では用水が来ず田はひび割れ稲は枯れかける状態になった。
 上流の用水路の浚渫や藻の刈り取りなどをして用水が流れやすくしたり、配水の時間割の調整をしたりするも、水源の庄内川自体の流量が不足しており効果があがらなかった。このため、やむをえず木曽川から取水している木津用水組合に助水を依頼したところ、木津用水も状況を理解し百方手を尽くして助水してくれたため被害は甚大にならずに済んだ。
 これは、明治16年の木津用水の改修時に庄内用水の組合内の町村が工事費の一部を寄付し、またその後も毎年木津用水に対し寄付していたため助水をしてもらうことが可能であった。
  12月18日  ・庄内用水の元杁樋の改築に着手
◆明治43年(1910) 
  3月28日 ・庄内用水の幹川から米野井筋を分流するさせる為、現在の中村区猪之越町に設けられていた米野井筋元杁の改築に着手
 「米野井筋元杁伏替工事」
   工事費:80円80銭2厘
   完 成:明治43年4月25日
  6月20日 ・庄内用水の元杁樋の改築が完了
○経過  明治42年2月15日 組合会で改築を決議し県に補助申請
         12月2日 県は補助を決定
         12月18日 改築工事に着手
     明治43年6月20日 竣功
○構造  延長99尺3寸(29.8m)、巾7尺(2.1m)、内法高中央10尺5寸(3.15m)の樋管2条
     樋の底張はコンクリート。左右の側壁およびアーチ天井は切石積み。一部に人造石を採用。
     樋に2個の釣戸を設置し開閉。
○工費  総額、10,515円78銭 
○庄内用水元杁及矢田川伏越樋管改築に従事した役員
     庄内用水普通水利組合
      愛知郡長 笹原辰太郎
      常設委員 服部善之助
      事務員 水野吉次郎・横地逸次郎・西川悦太郎・岩室直次郎・加藤留三郎
     請負人 栗田末松
     監 督 愛知県技手 伴政照
         仝 土木技手 村上幸太郎・佐治豊太郎
         仝 工  手 石黒亀吉
  7月30日 ・庄内用水の矢田川伏越樋管改築工事に着手
  8月頃 ・東井筋(江川)に用水美化を呼びかける看板を設置
 庄内用水普通水利組合は、東井筋に用水美化を呼びかける制札を23本建てる。
(文 面)
 1 此川筋エ塵芥瓦礫汚水汚物其ノ他流水ヲ汚穢スヘキモノヲ投棄スベカラス
 1 此川筋ニ於テ洗物并ニ遊泳其ノ他流水ヲ汚穢スヘキ行為ヲナスヘカラス
   明治34年2月28日 愛知県
(注:年が違うので、従前から立てられていた看板の建て直しか増設と思われる)
  9月25日 ・中井筋の橋の架け替え工事に着手
 庄内用水普通水利組合は、柳街道(名古屋城下と佐屋街道の通る烏森を直線的に結んでいた街道)が中井筋に交差するところ(現:中村区北浦町と日ノ宮町の境界)にかかっていた橋の架け替えに着手。
 「常盤村大字高須賀地内 中井筋柳街道板橋架替工事」
 工事費:176円
 完 成:明治43年10月25日
  この年 ・庄内用水の灌漑面積は、3,922町4畝20歩(3889.89ha)
◆明治44年(1911) 
  5月29日  ・庄内用水の矢田川伏越樋管改築工事が竣功
○経過  明治43年4月15日 組合会で改築工事の実施を決議
         5月29日 県費補助を県に申請
         7月13日 県より補助の査定許可
         7月30日 改築工事に着手
     明治44年5月29日 改築工事完了
○構造  長さ565尺2寸(169.6m)、巾7尺(2.1m)、高さ8尺5寸(2.6m)の人造石のアーチ型樋管2条
     外側は幡豆石巻。樋門は上流側は堤内側のみ、下流側は堤内と堤外両方に設置
○施工方法
 矢田川の川底を20尺(6m)ほど横断的に掘り下げて基礎を造り、その上に人造石のアーチ型樋管を2条築造
 工事にあたっては、まず矢田川の流れを川の南半分に集中させておいて北半分、その後流れを北側に集中させて南半分を建設した。北部分の工事では掘削を進めるとともに湧水が激しく作業できなくなり、臨時に蒸気力排水機関を設置。南部分は低地に排水路を造る事ができたので比較的順調に工事が進む。
○工費  41,644円3銭(県への補助申請額)
      内 県補助 29,150円82銭1厘、組合費 12,193円20銭9厘
 ・石灰買入 3,143円50銭
      契 約:明治43年7月25日
      請負人:西区南外堀町 土川佐七
      数 量:125,756貫
 ・種土買入 3,400円50銭
      契 約:明治43年7月23日
      請負人:東春日井郡志段見村吉根 柴田虎次郎
      数 量:453坪4合(志段見村吉根産の種土)
 ・セメント買入  4,199円91銭
      契 約:明治43年7月26日
      請負人:南区熱田東町184番地 愛知セメント(株)
      数 量:1,076樽9分(1樽:7斗入り)
 ・土工及鉄材等請負  20,000円
      契 約:明治43年8月8日
      請負人:西区志摩町 栗田末松
      工 期:明治43年9月25日~44年5月25日
 ・石材買入  10,200円
      請負人:栗田末松
 ・ボーリング  333円
      請負人:大阪市西区小堀江通 森川長蔵
      工 期:明治43年5月15日~
  ※石灰と種土は人造石の材料
  ※栗田末松は、大正2年完成の納屋橋架け替え工事を請け負った人物
  この年 ・庄内用水の水田灌漑面積は、3,890余町歩(3858.1ha余)


大正時代
 
◆大正元年(1912)
9月28日 ・東井筋(江川)人造石立切改築工事に着手
  ○場所  西区隅田町地内(現:西区幅下二丁目)
  ○規模  長さ5間(9.1m)、内法高6尺(1.8m)、横4尺(1.2m)、2門
  ○工費  1,080円
  ○完成  大正元年12月20日
この年 ・庄内用水の灌漑面積は、3,891町7畝20歩(3858.78㏊)
◆大正2年(1913)
10月13日 ・庄内村(現:西区)にあった庄内用水路と三郷悪水路の水位を調節するための立切を人造石で改築する工事に着手
  ○場所  西春日井郡庄内村大字稲生字十三割(現:西区稲生町1丁目)
  ○規模  長さ19尺5寸(5.9m)、内法巾18尺9寸(5.7m)、4門
  ○工費  950円
  ○完成  大正2年11月30日
◆大正3年(1914)
この年 ・庄内用水の元杁樋のゲートをネジで昇降する設備に変更
  ○工事名  元杁人造石樋管戸前昇降機工事
  ○工 費  220円
  ○請負人  南区熱田東町字梅ノ木33番地 日本車輌製造(株) 常務取締役原田勘七郎
・庄内用水の元杁樋のゲート操作部に屋根を設置
  ○工 費  65円
・庄内用水の灌漑面積は、3,840町7反8畝22歩(3809.29ha)
◆大正4年(1915)
この年 ・庄内用水の灌漑面積は、3,815町3反6歩(3784.02ha)
◆大正6年(1917)
  3月10日 ・大幸川が御用水を越える掛樋(水路橋)を鉄筋コンクリート造りで改築する事業に着手
  ○場所  西春日井郡金城村大字東志賀地内
  ○規模  長さ7間3尺(13.6m) 内法 巾4尺5寸(1.35m)、高さ3尺(0.9m)
  ○工費  1,156円64銭
  ○完成  大正6年4月30日
・愛知郡愛知町地内の米野井筋を付け替える工事に着手
  ○場所  愛知郡愛知町大字米野および露橋地内
       (現:中村区上米野町~中川区露橋町の一部区間)
  ○理由  水路が低地にあり、田へ引水するのに不便
  ○規模  延長247間4分(450.3m)、幅1間(1.8m)、
        358間(651.56m)に人造石護岸を築造
  ○工費  3,522円93銭(愛知町が工事費全額を負担し、工事も愛知町が請負う)
  ○完成  大正6年4月30日
◆大正7年(1918)
  この年 ・庄内用水の灌漑面積は、3,895町3反(3863.36ha)
◆大正9年(1920)
  7月21日 ・「庄内用水元杁前改良工事」を組合会で決議
 庄内用水は庄内川の流水を取水していたが取水に不便な為、元杁の対岸にある新木津用水などの水を庄内川を横断する地下水路により取水する計画が立てられる。しかし、県の補助が受けられず立ち消えとなる。

「庄内用水元杁前改良工事」
  ○計画策定の理由
  ・従来、庄内川の全幅を閉塞し、かろうじて灌漑用水を引き入れていた
  ・庄内川は、近年砂礫の流下埋堆の減少が著しく河床が低下し、従来の仮堰では十分に取水できない
  ・川を横断的に堰き上げる仮堰では、出水時に川の流れを妨害し治水上の危険がある
  ・名古屋市は隣接市町村の合併を進めているが、大部分は本組合区域であり、編入されれば耕地が減っていき、将来は組合の財源も悪化。
  ○計画の概要
   新木津用水末流の八田川と庄内川の合流点から、庄内川を挟んで対岸にある庄内用水元杁まで伏越樋(逆サイフォン式)を構築。
  木津用水からの助水と勝川町地蔵悪水(地蔵川)の一部を有利安全に引用し、水の調節と経費の節減を図る。
  ○施設の構想
  ・サイフォン:鉄筋管 内径4尺(1.2m)、延長112間(203.8m)
  ・予定工事費:21,436円12銭
  ○経過
  ・大正9年7月21日  組合会で議決(追加更正予算)
  ・大正9年8月11日  県に補助申請していたが、予算の都合で却下される
  この年  ・「庄内用水元杁内堤防護岸工事」が行われる
  ○規模  元杁下東側  板柵 長5.0
        〃     丸石組直し 長3.0
        〃 西側   〃    長4
    (単位の記載がないが、間と思われる)

・「庄内用水元杁々前掻上堤築造及仮堰設置并に水路浚渫工事」が行われる
  ○規模  長125間5尺 (228.4m) 平均巾10尺(3m)
  ○工費  846円28銭
  ○期間  許可日~9月30日
  ○構造等 掻上堤及仮堰の高さは杁前量水標3尺(0.9m)を限度とする
       右は1割5分、左は1割勾配
       底巾4間(7.3m)の水路を浚渫
       仮堰に3間(5.5m)の洗堰を設け、庄内川流量の5分の1を下流に放流
        ただし、本組合の請求に基づき、木津用水より助水の為め増加した水量はこの限りでない

・「大江筋堤防護岸工事」が行われる
  ○工種  三間杁下北側の丸石の組直しと、他の板柵護岸
  ○工費  1,210円6銭

・「東井筋(江川)上流堤防護岸工事」が行われる
  ○工種  板柵護岸
  ○工費  283円34銭

・「東井筋(江川)下流堤防護岸工事」が行われる
  ○工種  板柵護岸
  ○工費  497円68銭

・「米野井筋堤防護岸工事」が行われる
  ○工種  板柵護岸、
  ○工費  423円77銭

・「中井筋上流堤防護岸工事」が行われる
  ○工種  板柵護岸、一部石垣手直し工事
  ○工費  563円62銭

・「中井筋下流堤防護岸工事」が行われる
  ○工種  板柵護岸、一部石垣手直し工事
  ○工費  659円1銭

・「西江筋下ノ部堤防護岸工事」が行われる
  ○工種 板柵護岸
  ○工費  360円86銭

・「西江筋堤防護岸工事」が行われる
  ○工種  板柵護岸
  ○工費  679円87銭

・「稲葉地井筋上流堤防護岸工事」が行われる
  ○工種  板柵護岸、一部石垣組直し
  ○工費  782円29銭

・「稲葉地井筋下流堤防護岸工事」が行われる
  ○工種  板柵護岸、一部石垣組直し
  ○工費  975円89銭

・「旧御用水堤防護岸工事」が行われる
  ○工種  板柵護岸
  ○工費  145円29銭

・「志賀用水堤防護岸工事」が行われる
  ○工種  板柵護岸
  ○工費  246円76銭

・「庄内村大字稲生字十三割用水立切修繕工事」が行われる
  ○工種1  護岸工(人造石)
    規模  延長8間(14.6m)、高 平均5尺(1.5m)
        厚 上1尺5寸(0.45m) 下2尺5寸(0.75m)
    工費   199円32銭
  ○工種2  護床工
    工費  476円32銭

・庄内用水の「浚渫工事」が行われる
  ○規模  人夫 延べ795人、人夫賃 1人1日 1円50銭
  ○工費  人夫賃合計 1,192円502銭

・庄内用水普通水利組合から下記へ報償金が支払われている。
  木津用水組合 500円
  下之一色    25円
  荒子村     30円
  金城村     20円

・庄内用水の灌漑面積は、3,722町2反4畝歩(3691.72ha)
◆大正10年(1921)
  3月8日~ ・「庄内用水三間樋樋先護床工修繕工事」が行われる
  ○規模  長11間(20.0m)、巾4間(7.3m) 、先5間(9.1m)
  ○工費  220円56銭
  ○工期  3月8日~3月31日
  この年 ・庄内用水の灌漑面積は、3,722町2反4畝歩(3691.72ha)
◆大正11年(1922)  
  3月15日 ・木造だった三郷悪水の吐樋を鉄筋コンクリートで改築する工事に着手
  ○場所  庄内村大字稲生字十三割地内
  ○規模  長さ18尺(5.4m)、 内法 高4尺(1.2m) 巾6尺2寸(1.9m)、1門
  ○構造  樋体 鉄筋コンクリート、 袖土抱 人造石
  ○工費  1,335円
  ○工事完了  大正11年6月18日
  この年 ・庄内用水の矢田川伏越樋管の修繕工事が行われる
 ○規模  長565尺2寸(169.6m)
      内法 巾7尺(2.1m) 中央高8尺5寸(2.6m) 側壁高5尺(1.5m)、孤長11尺(3.3m)、 拱(きょう、ア-チのこと)型 2門
 ※規模には伏越の大きさが記載されているが、工事内容は、樋管下流側にあった分水池の護岸根固め工事が中心
◆大正12年(1923) 
  4月14日 ・庄内用水の管理を行ってきた庄内用水普通水利組合が解散し、用水の全財産と管理が名古屋市に引き継がれる
  ○背景
   大正10年の名古屋市による隣接町村の合併により、灌漑面積の9割2分(3,500余町歩)、水路延長の8割8分〔27,000余間(49.14km)〕が名古屋市域に属することになったため。
  ○規模
   用水供給面積29.4㎢、用水路延長55㎞997m
   毎年4月25日から9月まで従来の慣習に従って通水
  6月28日 ・庄内用水路配水規程を施行(告示111号)
  ○内容  井筋別、地区別に配水区を設置
       杁守を設置
・庄内用水路配水係員及び杁守当務規程を施行(達第48号)
  ○内容  配水係員を用水路関係区域居住者の中から委嘱し、巡視などを行う
       杁守10人を置き、杁の開閉を行う
◆この頃
    ・江川(庄内用水東井筋)以下の悪水路(江川、笈瀬川、紫川、大幸川、流川、深田川)は、明治40年から大正12年に至る下水道工事の完成によって、その大部分は暗渠になり、その表面は道路として利用されるようになる。
◆大正13年(1924)
  この年 ・愛船株式会社の運航廃止



昭和時代以降
 
◆昭和3年(1928)
8月 ・灌漑区域内に、名古屋市西区名塚耕地整理組合が設立される。
◆昭和5年(1930)
この年 ・庄内用水の灌漑面積は、2,967町歩(2,942.67ha)
◆昭和9年(1934)
5月21日 ・灌漑区域内の中川西土地区画整理組合で、1区(東大手)の換地処分が行われる
6月29日 ・灌漑区域内に、児玉町土地区画整理組合が設立される
 西区児玉町の地主83名は、市の工業発展を見込んで、児玉町土地区画整理組合をつくる。
◆昭和11年(1936)
9月18日 ・児玉町で小作争議が起きる
 西区児玉町で、児玉町土地区画整理組合による離農問題を原因として、小作争議が起きる。離農に対する保証金額が原因。昭和11年12月15日解決。
◆昭和14年(1939)
  10月 ・木曽川から堀川への浄化用水の導水実験が行われる
 堀川、新堀川の水質が悪化してきた為、木曽川の水を木津用水・新木津用水・庄内用水(守山区内)・黒川などを利用して導水し浄化する実験が行われる。
 (この試験は、昭和16年まで毎年2月・5月・8月・10月・随時の5回実施。堀川・お堀・船附ポンプ所経由で新堀川へ流注) 
  この年度 ・矢田川伏越樋の修繕工事を実施。
 ○内容  河床の低下により樋管の背部が露出したため床止工
       (長さ55m、巾2m)
      樋管の底の人造石目地の練土が流出したため、モルタルで充填
 ○工費  1,900円
・庄内用水の杁守は10名。杁守手当ての合計は231円50銭
◆昭和19年(1944) 
  この年 ・庄内用水頭首工の建設計画
 従来、庄内川からの取水の為、木柵堰により水位を堰き上げていたが、庄内川の河床が流水で年々低下するため、毎年多額の復旧費が必要であった。このため、恒久的な堰(頭首工)の建設が計画されたが、第二次世界大戦中のため着手できなかった。
◆昭和21年(1946)
  12月 ・庄内用水の一部を管理移管(名古屋市→名古屋市用悪水普通水利組合)
 中川区、港区内の庄内用水の管理は、名古屋市から新たに設立された名古屋市荒子川用悪水普通水利組合に引き継がれる。
 組合長は名古屋市長が就任。両区内での灌漑面積は2,450町歩(2,429.91ha)
◆昭和22年(1947)  
  ・明治9年以来の大干ばつになる
◆昭和23年(1948) 
  6月14日  ・庄内用水配水係員規程施行(告示第86号)(復興局水利課が事務を担当)
 ○内容
  庄内用水路、及び柳瀬川(荒子川上流部)、荒子川における灌漑用水・ 配水の適正を図るため配水係員8人を置く
  係員は、農業者の推薦を受けたものについて、市長が委嘱する
  係員は、杁・立切や配水時間割などについて、市長の諮問に応じ意見を述べる
  この年 ・庄内川の流量が不足するときの庄内用水の通水量増加対策として下記の事業を実施
 ○守山市(現:守山区)に井戸掘削
  元杁樋門下流の庄内用水左岸近くに直径6m深さ8mの井戸を掘り、ポンプで用水に汲みあげる
 ○新三菱重工内の井戸からの補給
  中村区岩塚町内にある新三菱重工の井戸から用水へ補給。稲葉地井筋の中村区岩塚町より下流の補給対策。
 ○庄内川伏流水の取水
  中村区岩塚町字宮前に、庄内川の伏流水を取水する施設を設置。
◆昭和24年(1949)  
  3月 ・名古屋市西区名塚耕地整理組合が解散される 
◆昭和25年(1950)  
  9月 ・名古屋市荒子川用悪水普通水利組合の区域拡大
 名古屋市荒子川用悪水普通水利組合の区域に、中村区・西区・北区・熱田区が加えられる。灌漑面積は、3,800町歩(3,770ha) 
  この年  ・庄内用水の灌漑面積は、1,972ha 
・土地改良法の公布
◆昭和26年(1951) 
  この年  ・庄内用水の灌漑面積は、耕地25,382反歩(2,517.89ha)
 〔内、田19724.5反歩(1,956.67ha)〕
  この年度 ・庄内用水頭首工の建設事業に着手
 昭和19年に計画された庄内川への頭首工設置事業に着手
◆昭和27年(1952) 
  1月25日  ・庄内用水頭首工工事に関して河川占用が許可。あわせて従来の慣行水利権が法定水利権に変わる

 庄内川への頭首工設置工事に伴い、当時、庄内川を管理していた愛知県知事から農業用水管理者としての愛知県知事に、庄内川筋流水使用(法定水利権)、並びに川敷堤防占用、および工作物設置が許可される。
  ○占用面積  川敷 5,975坪2合8勺 、堤防 1,452坪
  ○使用水量  200立方尺(5.4㌧)/秒 、通年取水権(従来の慣行水利権から法定水利権に変わる)
  ○許可期限  許可日から昭和37年3月31日
  ○許可条件  本地点到達流量の5分の1を責任放流
         (下流での取水や河川環境維持の為、庄内川が渇水のときは水利権量が200立方尺といえども全量を取水できるのではなく、庄内川流量の5分の1は必ず下流に放流する)
  ○工事施工期限  昭和29年3月31日。
  ○条件  将来施設一切を名古屋市に移管の時は、ただちに愛知県知事に届ける
  ○申請  昭和26年11月5日
  3月31日 ・名古屋市普通水利組合の「土地改良事業(維持管理)計画書」が名古屋市普通水利組合組合会で議決される
◆昭和27年(1952) 
  7月1日 ・名古屋市土地改良区が設立され、庄内用水の管理が移管される 
◆昭和29年(1954) 
  3月 ・県営荒子川用排水事業として、昭和26年度に着手した庄内用水頭首工が完成
  ○事業費  126,979,000円
   (国:50% 県:25% 市:12.5% 改良区:12.5%を負担)
  12月14日  ・庄内用水頭首工の河川敷地占用の権利などを愛知県から名古屋市土地改良区に移転
 灌漑用水取水堰堤設置および流水使用のための、河川敷地占使用・工作物設置許可により生じる権利義務を、愛知県から名古屋市土地改良区に移転することが、愛知県知事から許可される。
  ○内容  庄内川川敷(1780.84坪)および堤防敷(630.01坪)
  ○理由  この工作物を設置した土地および流水使用権、および地上物件など一切を譲渡したため、占使用の権利義務一切も移転した。
  ○申請  昭和29年11月1日付
  この年度  ・庄内用水幹線の改修を、県営荒子川用排水改良事業として開始。昭和32年度完了
◆昭和30年(1955) 
  この年度  ・庄内用水矢田川伏越樋の改築
 矢田川の河床が流水の洗掘により年々下がり、庄内用水が矢田川を横断する為に設けられている伏越樋(川底の水路トンネル)の天端が川底から1.4m露出するようになった。流水の妨げになり、また老朽化してきたため、伏越樋を改築し、従来より1.5m下げるとともに断面を拡大する工事が、県営災害復旧工事として施行される。これにより、明治43年に設置された人造石の伏越樋はとり壊された。
◆昭和31年(1956) 
  5月10日  ・西区内の庄内用水路の一部を暗渠化
 西区枇杷島通にあった中央卸売市場枇杷島市場の拡充のため、市場構内を横断していた庄内用水路180mを暗渠にする工事が完了 
  8月6日 ・名古屋市土地改良区の事業を、即刻市に引き継いでほしい旨の請願書が、改良区から市会に出される。
 〔理由〕
  ○市街地の拡大と農地の減少による経営の悪化
   (組合費賦課対象耕地は1,117町歩に激減)
  ○荒子川ポンプ所などは、一般市民の排水処理や水害予防事業が主体になって来た
  ○荒子川運河計画などにより、農業の振興という改良区本来の使命が薄らいだ 
◆昭和32年(1957)  
  この年度 ・昭和29年度から開始された県営荒子川用排水改良事業による庄内用水幹線の改修が完了
  ○事業費  43,114,000円
    (国:50% 県:25% 市:15% 改良区:10%を負担)
◆昭和33年(1958) 
  9月25日 ・庄内用水から市工業用水への分水申請
 名古屋市水道局長から名古屋市土地改良区理事長(大西泰助)へ、工業用水取水に関して、「庄内用水の分水並びに用水路使用許可申請書」が提出される。水量1.157㌧/秒 
  10月16日  ・庄内用水の市工業用水への分水について、名古屋市土地改良区が同意
  この年 ・庄内用水の灌漑面積は、耕地16,160.3反歩(1,603.1ha)
  (内、田12,287.2反歩(1,218.89ha))
◆昭和34年(1959)
  1月24日 ・庄内用水の一部区間が準用河川に認定される
 庄内用水は、守山市大字瀬古字新堀地先で古川と合流していたが、この古川合流点から堀川分岐点まで(および堀川)は、準用河川に認定される。
  2月1日 ・庄内用水の管理が名古屋市土地改良区から名古屋市に引き継がれ、土木局道路課水利係が担当
  2月2日 ・県営荒子川用排水改良事業による工作物の管理権を、名古屋市土地改良区から名古屋市へ移転
 従来、名古屋市土地改良区が管理していた県営荒子川用排水事業により造成した工作物の維持管理権の名古屋市への承継が、愛知県知事により承認される。
  ○申請  昭和34年1月26日
  3月1日  ・名古屋市土地改良区の事業および財産が名古屋市に移管される
  9月26日  ・伊勢湾台風来襲
 名古屋市内における被害は、死者・行方不明者1,851名、負傷者42,379名、流出家屋1,557戸、床上浸水34,883戸、床下浸水32,469戸にのぼった。また、愛知県内の堤防決壊は535か所となった。庄内用水灌漑地域でも、南部の埋め立て地などが大きな被害をうけた。
 この頃 
    ・名古屋市土地改良区の概要
  ○受益面積  37,915反、
  ○組合費賦課対象面積  13,397反
  ○組合員:4,359人、総代:80人、理事:20人、監事:3人、事務局職員:10人 
◆昭和35年(1960)
  3月3日  ・市長は、市水道局長に対し、市工業用水取水にともなう庄内用水の分水(1.157㌧/秒)、並びに用水路使用を承認
◆昭和37年(1962)  
  3月31日  ・庄内用水の農業用水利権の名古屋市土地改良区から名古屋市への移転が知事により承認
 農業用水利権の名古屋市土地改良区から名古屋市への移転が愛知県知事により承認される。なお、取水量は従来の5.4㌧/秒から、下記のような期別水利権になり、また減量された。
  ○水利権量
    代掻期(6月15日~7月5日)  3.583㌧/秒
    成育期(7月6日~8月31日)  3.236㌧/秒
    その他の期間(4月1日~6月14日、9月1日~9月30日)  2.288㌧/秒
  ○期間  昭和27年4月1日~昭和37年3月31日
  ○申請  昭和35年3月1日 
◆昭和38年(1963)  
  4月22日 ・堀川浄化のため、庄内川から取水し庄内用水路(守山区内)を経由し堀川に試験通水する水利権が、愛知県知事から許可される。
 取水量:10㌧/秒(日量最大864,000㌧)以内。ただし、庄内川枇杷島水位観測所において15㌧/秒以上のときのみ取水可能
 期間:昭和38年4月22日~38年5月31日
 (この水利権は、39年12月19日、41年4月1日、 43年7月10日に更新される)
  5月2日 ・堀川浄化のため、庄内川から試験通水開始(昭和50年まで実施) 
◆昭和40年(1965) 
  10月22日 ・庄内用水の農業用水利権、および土地の占用・工作物の設置期間の更新が、愛知県知事から許可される。
  ○期間  昭和37年4月1日~42年3月31日
  この年 ・庄内用水の灌漑面積は、737ha
◆昭和42年(1967) 
  8月5日 ・庄内用水の農業用水利権、および土地の占用期間の更新が、愛知県知事から許可される
  ○期間  昭和42年4月1日~47年3月31日
◆昭和43年(1968) 
  3月 ・荒子川南部土地区画整理事業が完了 
◆昭和44年(1969)  
  3月  ・春日井市内の王子製紙の排水が、堀川や庄内用水などの水質を悪化させているため、工場に対し水質改善の要望を行う
  3月31日 ・庄内川から堀川への浄化用水導入について、河川管理者(愛知県知事)と名古屋市長との間に協定が締結される。
  ○最大導水量  10㌧/秒
   ただし、枇杷島流量観測所地点における庄内川の流量が15㌧/秒を越える部分の範囲内において導入できるものであること。
  4月1日  ・庄内川の庄内川橋より下流が国管理になる
 (昭和49年に東谷橋より下流へ拡大し、その後も拡大される))
◆昭和45年(1970)  
  この年  ・庄内用水の灌漑面積は、454.2ha
◆昭和46年(1971)  
  6月24日  ・水質汚濁防止法を施行
◆昭和47年(1972)  
  4月 ・流況調整河川木曽川導水事業の実施計画調査に建設省が着手
◆昭和50年(1975)  
  この年  ・庄内用水の灌漑面積は、150ha
◆昭和53年(1978)  
  8月22日 ・庄内用水の矢田川旧伏越樋管の占用廃止届
 下水道局の三階橋ポンプ所の建設にともない、矢田川の伏越樋管が改築され、これにともない従来の樋管の占用廃止届が市長から建設省に出される。なお、旧樋管の低水路部分は、新設樋管の保護施設として残され、市下水道局に移管。
 また、樋管は従来は庄内用水と堀川の兼用の形で運営されて来たが、今後は河川管理施設として、愛知県知事が管理することとなった。 
  この年 ・下水道局の三階橋ポンプ所建設にともなう矢田川伏越改築工事が完了。
 従来伏越の南側にあり通称「天然プール」と呼ばれて水泳などで親しまれていた分水池も埋め立てられ姿を消し、三階橋ポンプ所の敷地となった。
◆昭和54年(1979)  
  3月31日 ・庄内用水の取水口上流に、導流堤設置
 工場排水により水質の悪い八田川からの流入水を排除し、庄内川本川の水だけを取水できるように、頭首工の上流部に導流堤が設置される。
  ○規模  木柵(高さ1.8m) 延長26m
       ダルマ篭(直径1.5m、高さ1.2m) 16個
       土堤ならびに土留壁(壁高1.3m) 延長232m 
◆昭和56年(1981)
  1月30日 ・庄内用水元杁頭首工管理詰所の改築が完了
◆昭和57年(1982) 
  6月3日 ・名古屋市土木局は「川を美しくする会要綱」を制定。
 沿川住民での河川美化活動への市からの援助を定めた要綱を制定。
 以後、庄内用水沿川に川を美しくする会が結成される。
  7月  ・庄内用水で「魚のつかみ取り大会」を開催
 名古屋市は用水の美化をPRするため、北区光音寺町の用水路で、数千人の子供が参加する「魚のつかみ取り大会」を行なう。
 以後、昭和60年まで毎年場所を変えて実施
◆昭和58年(1983) 
  8月  ・「天然プールの碑」が建立される
 以前、矢田川伏越樋の南側にあった分水池…通称「天然プール」を記念する碑が、名古屋市の河川由来碑の第1号として建てられ、市長も出席して除幕式が行われる
◆昭和59年(1984) 
  3月5日  ・昭和20~30年代に県営事業で整備された頭首工や北区・西区内の水路護岸などは、これまで県有財産で管理のみ名古屋市が行ってきたが、県から名古屋市に無償譲渡される
  この年 ・庄内用水路環境整備事業(庄内用水を水と緑の散策路に整備する事業)が、北区三階橋下流から始まる。
・灌漑面積は、土地課税台帳、および現地調査の結果87.4㏊(水田のみ) 
◆昭和61年(1986) 
  ・「産業考古学会」と「愛知の産業遺跡・遺物調査保存研究会」から「庄内用水の元杁樋門は明治の貴重な文化遺産として現地保存することを求める」陳情書が市長へ出される
  10月 ・庄内用水元杁樋門の新樋門建築
 元杁樋門が老朽化してきた為、明治43年に造られた樋門の前(川側)に、新しい樋門を建設する工事が始まる(昭和63年3月完成)
◆昭和62年(1987) 
  4月 ・昭和29年に完成した庄内用水頭首工が老朽化したため、ゲート修繕工事が始まる
 (平成4年3月完成) 
  7月10日 ・昭和59年から進めてきた庄内用水路を水と緑の散策路に整備する事業が、建設省の「手づくり郷土賞ー水辺の風物詩」を受賞
◆平成元年(1989)  
  5月 ・荒子川の水質改善の為、庄内用水の余剰水を荒子川の最上流に導水
◆平成2年(1990)  
  3月 ・庄内用水取水口上流部の導流堤を改築
◆平成16年(2004) 
  8月  ・「庄内用水を環境用水にする会」設立
 庄内用水は農業用水のため、4~9月の灌漑期以外は水利権がなく水路は一滴の水もない状態であった。このため北・西区内の沿川9学区の住民が会をつくり、通年通水を目指してイベントや陳情活動を始める。
◆平成22年(2010)  
  12月14日 ・通年通水開始
 守山水処理センターで高度処理した下水を、三階橋ポンプ所西の庄内用水へ注入




 1997/02/28・2021/06/23改訂