名古屋最大の農業用水 庄内用水……といっても、都市化がすすんだ今日では名古屋に住んでいる人でさえ、知らない人の方が多いのではないだろうか。
 肥沃な穀倉地帯であった濃尾平野。農業の生産力が名古屋の発展を支え、その中心だった稲作農業を支えたのは用水だったのである。 

     戦国時代に開削   尾張六大用水の一つ   水量の確保に苦しむ
    水と緑の散策路へ    



戦国時代に開削
 庄内用水の開削は元亀・天正年間(1570~92)と伝えられているので、織田信長や豊臣秀吉が活躍していた頃である。
 戦国大名達は、領地の経済力(=国力=戦力)を高めるため、国内の農業や商業・鉱工業の振興、その礎となる治水や道路整備にも力を注いでいた。庄内用水もそのような戦国の時代背景の中で造られたのである。

 戦国時代に開削されたとはいうものの、この地方は沖積平野なので古代から稲作が行われ、小規模な用水が整備されていた。尾張地方は永禄8年(1565)に信長が犬山城を落として尾張を統一するまでは群雄割拠する状態であった。農業用水の改変は村や集落ごとの利害がからみ難しいが、信長がこの地方の支配者になることで、元亀・天正年間(1570~92)に従前からの用水を拡張・整理統合し、現在の姿の原型が造られたものと思われる。
 庄内用水は西区や中村区などでは「惣兵衛川」とも呼ばれている。「惣兵衛」という人がこの用水に関係したのかも知れないが、名前の由来は伝えられていない。



尾張六大用水の一つ

◇尾張六大用水の一つ 

 庄内用水は庄内川から取水し、現在の名古屋の西半分の広大な地域を灌漑していた。
 江戸時代の本『古今卍庫』には、尾張の六大用水の一つとして「稲生杁」の名前で載せられており、杁(川から用水への取水口)は3腹(か所)、井高は33,632石と記録されている。

◇南部の干拓新田まで灌漑

 用水の支川には、東井筋(江川)、米野井筋、中井筋、稲葉地井筋があり、これらの支川からさらに枝分かれした大小の水路が網の目のようにめぐらされ、田をうるおした余り水は荒子川や笈瀬川へ流れ込んでいた。

 明治37年(1904)には北・西・中村・中川・熱田・港区の3,908㏊もの美田をうるおしていたが、都市化とともに東井筋と米野井筋は埋め立てられ、今では中井筋と稲葉地井筋により流域にわずかに残る77㏊の田に利用されている。

『庄内用水灌漑区域図』 大正6~10年頃




水量の確保に苦しむ
 毎年のように夏になるとどこかの地方が水不足になり、テレビはひび割れたダムの底や田の姿を映し出す。
 いまの時代の水不足は、都会に住む多くの人には節水で生活が不便になるという問題でしかない。だが、かつての農民にとって水不足は、文字通り死活問題であった。豊かな水と夏の強い日差しはたわわに実った秋の稲穂を約束し農民の顔に明るい光をさしかけ、乾いてひび割れた田や冷たい夏の空気は農民の心に暗い陰をおとした。

 用水の歴史は、水量を確保する歴史と言っても過言ではない。庄内用水は何度も取水する場所や流路を変えている。
 川は生きている。上流部では浸食により川底が少しづつ下がってゆき、下流部では土砂の堆積で少しづつ川底が上がってゆく。川底が下がると水面も低くなり用水の取水が難しくなる。川底が高くなると用水路へも土砂が流入し、用水路の維持が難しくなる。水源の庄内川は決して流量の多い川ではなく、江戸時代に名古屋南部で新田開発が進むと不足がちになってきた。
 十分な水を安定して流すために、何度も取水位置や流す経路を変えている。大量の農業用水を確保することは大変なことだったのである。

 庄内用水の主な変遷をたどってみよう。















水と緑の散策路へ
 永い年月にわたり農民の命の綱ともいえる農業用水を流してきた庄内用水だが、市街化が進み田は減少してきた。そのようななか、コンクリートジャングルとも言われる市街地を流れる水路は、街に潤いをもたらす貴重なオアシスとして見直されるようになってきた。
 昭和59年(1984)から北・西区内の用水路岸に散策路を整備し、所々にベンチや東屋などがあるポケットパークを設けて地域の潤いの場所とする「庄内用水緑道」の整備が始まった。この事業は魅力ある個性的な地域づくりと認められ、建設省(現:国土交通省)の「昭和62年度手づくり郷土賞ー水辺の風物詩」の一つに選ばれた。
 また、中村区の日比津で分流し中村・中川区を流れている中井筋は、水路に蓋かけして中井筋緑道に整備されている。

 庄内用水は農業用水なので、庄内川から水を流す水利権は灌漑期の4~9月に限られていた。非灌漑期になると一滴の水もなくコンクリートの乾いた水路が露出し味気ない姿をさらしていた。これを改善しようと平成16年(2004)に沿川の人々が「庄内用水を環境用水にする会」をつくり、様々なイベントや陳情活動を行った。その結果、22年(2010)から守山水処理センターで高度処理をした下水処理水が堀川との分流点である三階橋ポンプ所の西で注入されるようになり、年間を通じてせせらぎが見られるようになった。

 広大な農地に大量の水を送るという役割を終えて今ではわずかに残る田を灌漑するだけだが、大都会の中を流れる潤いの水辺と緑の散策路という新しい役割を果たしている。



 1997/02/01・2021/06/24改訂