画期的な大運河
中川運河開削
 昭和7年(1932)、中川運河が全通した。それまでの堀川や新堀川と異なる閘門式運河なので大きな艀も潮待ちをする必要がなく、川幅が広く近代的な運河であった。沿川には掘削土で造成して倉庫敷地・道路・工場敷地を造り、地域の発展を図った。


    運河開削の時代背景   運河の規模と特徴   沿川開発も一体で
    開削事業    



運河開削の時代背景
◇堀川は大混雑
 江戸時代初期に名古屋城と城下町が造られ、城下への輸送路として堀川が開削された。
 明治(1868~)になり名古屋は城下町から近代的な産業都市へ変身し、多くの工場が操業するようになった。当時、大量輸送ができるのは船しかなく、江戸時代とは比較にならないたくさんの船や筏が堀川を行き来するようになった。両岸に船や筏が係留され、通航する舟や筏は中央に残された細い水面を一列になって航行していた。
 また潮の干潮満潮により水深が変化する開放型運河なので大きな船は満潮を待って堀川に入るしかなく、効率的な輸送ができない状態になっていた。


混雑する堀川
『愛知県写真帖』 明治43年

◇名古屋港開港と後背地の開発
 名古屋の海運は熱田湊が担ってきたが水深が浅くて大きな船は接岸できず、沖で親船から小舟に積み替える瀬取や大型船が入れる四日市港での中継輸送が行われてきた。

 明治29年(1896)から現在の名古屋港の建設が始まり、40年(1907)には海外と直接貿易ができる開港場に指定され、44年(1911)に第一期工事が完了して海運の拠点となった。
 名古屋港の後背地は、江戸時代の新田開発で陸となった干拓地なので低湿地帯であり、交通の便も悪く明治末になっても農村地帯であった。しかし、輸送に便が良い名古屋港に至近の地域なので、大量輸送ができる船が通航する運河を建設すれば工業地帯として大きく発展できる可能性を秘めていた。

◇運河網計画
 名古屋港の後背地の開発と混雑する堀川での舟運を軽減するため、大正13年(1924)に運河網計画が都市計画決定された。荒子川・中川(上流部は笈瀬川)・山崎川・大江川を運河に改造し、これに堀川を加えた5運河を相互に連絡する支線を設けて運河網を構築する計画である。

 運河網計画の中で最初に建設されたのが中川運河である。
 内陸深くまで水路が延び、堀川と繋がるのでそのバイパスとして混雑緩和が期待でき、上流端に貨物駅を設ける事で鉄道輸送と連結できるため、事業効果が大きいことから選定された。





運河の規模と特徴
◇広くて深い運河
 中川運河(横堀運河は除く)は延長8.2㎞で幅は36mから91mである。港との間に中川口閘門、堀川との間に松重閘門を設けて締め切ることで水位を一定にし、潮の干満の影響を受けないようにする事で、水深は2.8~3mを保つ事ができた。

 当時輸送幹線であった堀川中流部の幅は20~40mなので、中川運河は相当広い。また堀川の水深は昭和2年(1927)から8年(1927)にかけて行われた大改修で朔望平均干潮面(NP)より6尺(1.8m)に掘り下げているが、中川運河は更に1mほど深い。
 堀川は江戸時代初期の船が通航するのに適した規模で開削されており、明治以降に船の大型化が進み潮待ちなどをしないと遡行できない状態になっていた。中川運河は新しい時代に適合した使い勝手の良い運河である。

◇堀川舟運・鉄道輸送と連結
 松重閘門を通って中川運河と堀川との間を船が行き来できるようにすることで堀川のバイパス機能を持ち、上流端には舟溜まりを設けその北側に笹島貨物駅を新設する事により、舟運と鉄道輸送を連結させている。


幅と延長 下図は市のパンフレット




沿川開発も一体で
◇開削工事と一体で沿川の開発
 運河を開削する地域は江戸時代の干拓により陸地化した所なので、海抜0m以下の場所が多い。

 『港区誌』の座談会で当時の様子が語られている。
「中川運河ができる前は、わたしの町内(須成町、東海橋の北)はほとんど旧中川の両側にあって、田園地帯でした。雨が降ると田んぽの中は胸ぐらいまで水が入って、実りの秋なんかに台風がくると、米などはみんなダメになりました。当時はまだポンプなんかがなかったころで、”三杁り”という水門を開けて、水を出しました。こんな具合で、台風があると不作で、クズ米しかとれなくて、年貢も納められず、そこでお金で年貢を納めるため、みんな名古屋港へ働きにでていました。」

 このまま工場地帯にすると水害を受ける可能性が高いので、運河を建設する時に発生する掘削土で沿川に土盛りをして造成している。
 運河の岸から5間(9.1m)幅で物揚場、その外側に15間(27.3m)幅で倉庫敷地を築造し、その外側に幅8間(14.6m)の道路、さらに50間(91m)幅の敷地造成をしている。このため運河の幅も合わせると、320~375mもの広い範囲が開発された。



運河周辺は低湿地帯
国土地理院デジタル標高地図で作製。
(注:川など水の部分の色は標高を表していない )



運河断面図
下図はパンフレット『中川運河』




開削事業
◇反対もあった受益者負担金
 運河網計画の都市計画決定がなされた翌大正14年(1925)11月から用地買収と地上物件の移転交渉が始まった。買収面積は1.95㎢で、移転対象者は909人であった。

 また開発により利益を受ける事になるとして周辺地主の2,500余人に受益者負担金を賦課した。しかし地主たちは反発して不納同盟会を結成し、15年(1926)1月には弁護士を立て訴願(訴願法は現在の行政不服審査法の前身)するなどしている。


運河開削前の中川口付近
各舟から数本の竿を出し漁をしている
◇起工式に来賓2,000人
 大正15年(1926)6月、開削工事用に英国製の浚渫船2隻と米国製の掘削機4台を購入するなど準備を進めた。10月1日に篠原橋近くの会場で2,000人余の来賓が参加し起工式が行われた。

 工事の大部分は飛島組(現:飛島建設)が請負い、昭和5年(1930)10月に幹線と北支線に通水して25日から使用が始まった。これに先立って10月10日に人口100万人突破記念の4大事業(中川運河開削、市公会堂建設、堀留・熱田下水処理場建設、水道設備建設)竣工記念式の余興が中川口閘門付近の広場で行われた。八幡連芸妓の手踊りや打上花火、小学生の野球、ペイロン船競漕、ボートレース大会などで賑わったという。

 東支線は昭和5年(1930)に松重閘門が完成し、6年(1931)7月に閘門から東海道線などの橋梁までの区間が使用開始になった。翌7年(1932)12月20日に全通して、中川運河開削の全工事が完了している。

  
起工式


パワーシャベルで掘削


クレーンも活躍

パンフレット『中川運河』より

航空写真 下図は絵葉書


完成間近の運河。
下流部は掘削工事中、中流部はほぼ完成、北支線と東支線は一部未掘削。




 2023/11/19