都市にはその街を代表する川がある。
 東京の隅田川、大阪の淀川、京都の鴨川…名古屋は堀川である。
 多くの都市の川は自然の川だが、堀川は人工の川だ。名古屋の町自体も自然にできたのではなく、この地域の中心地であった清洲から町ぐるみ引っ越して造られた町である。
 堀川が、どうしてどのように造られたのか探ってみよう。

    なぜ 堀川を掘ったのか?   自然河川はあったのか?   何年に造られたのか?
    どんな規模の工事だったのか?    



開削の謎 その1……なぜ 堀川を掘ったのか?
 慶長15年(1610)に名古屋城の建設が始まり、清洲が街ぐるみ移転する清洲越しが行われて城下町が生まれ、堀川が開削された。堀川は、なぜ造られたのだろう。

◇一つめの説……築城資材の輸送のため
 巷間でよく言われるのが、この説である。
 〔論拠〕
 城と堀川は同じ頃に造られている。名古屋城を造るには膨大な量の石や木材などを運ぶ必要がある。当時大量輸送が出来るのは舟しかなく、舟による資材輸送路として堀川が掘られた。その後、工事が終わり一般の輸送路として使われるようになった。

 〔説の検討〕……石垣の工事には間に合わない
 広大な城の石垣を造るには、重くて扱いにくい膨大な数の石を運ばなければならず、舟による輸送が出来れば相当軽減できる。石垣の基礎杭や天守閣をはじめたくさんの建物を造るには、多くの木材が必要となり、筏で運搬できれば相当効率化される。このため、納得しやすい説である。

 しかし、城と堀川の工事が行われた時期を比較すると、この説には疑問が生じる。
 石垣工事は慶長15年(1610)6月3日に根石(石垣の一番下の石)置きが行われ、9月9日には完了してお手伝い普請の大名たちが帰国している。一方の堀川の開削年は2つの記録があるが、早いほうの記録でも同年6月1日に工事を始めたとしている。その間はわずかに3日しかなく、堀川を掘り、ある程度まとまった量の石を運んだと考えるのは無理がある。また石を陸揚げしたと伝えられる場所は、当時の海岸近くである瓶屋河戸(現:瓶屋橋)や中川(現:中川運河)の上流部で、堀川上流部という伝承や記録はない。
 前年から大名たちにお手伝い普請の準備を命じた家康が、事業の成否を左右する資材輸送路に無関心だったとは考えにくい。堀川を工事資材の輸送路として開削するなら、築城工事に先行して造らなければならず、同じ頃に城と堀川が造られていることは、築城資材輸送は堀川開削の目的ではないと考えられる。

 無論、堀川は資材輸送に全く使われなかったということではない。石垣完成後も建築工事などが進められ、慶長17年(1612)末に天守閣が完成している。築城で一番大変な石の輸送には使われなかったが、その後の建築工事の資材は堀川を利用できたと考えられる。



◇二つ目の説……名古屋城の防衛線
 〔論拠〕
 築城当時は関ヶ原の合戦により徳川方が圧倒的に有利な情勢になってはいたが、まだ大阪には豊臣氏がそれなりの勢力をもって残っていた。最後の決戦で豊臣方の軍勢が名古屋へ侵攻したときに、堀川という水面を設けることで城下町と城が安易に攻略されないように造られた防衛線である。

 〔説の検討〕……防衛機能はない
 堀川に架かる橋を落として渡れないようにすれば、敵はすぐには城下へ侵攻できず仮橋や舟で渡ることになり、その間に敵に打撃を与えることができるので、一見するともっともな説に聞こえる。

 しかし城下町付近の堀川は幅が20m余しかなく、弓や鉄砲の有効射程距離内である。また城下町の道幅は3~5間(5.5~9.1m)しかなく、町家の地域は木造の家が軒を接するように建っていた。
 敵が堀川越しに火矢を射込めば、城下町は火の海となり焼き払われてしまう。堀川を防衛線として使うなら、東岸は広い敷地に建物が離れて建つ寺院や武家屋敷などを配置し、堀川に面する側は土塀を構えるなどの配慮をする必要がある。しかし実際の堀川東岸の多くは町家になっており、防衛を考えた町割になっていない。
 このことから、防衛線として造られたとはとても言えない。ないよりは有ったほうが良いという程度である。

緑色:町家 白:武家屋敷・社寺
『天明年間(1781~9)名古屋市中支配分図』
  ◇三つ目の説……城下町への輸送路
 〔論拠〕
 名古屋は尾張藩という大きな藩の政治と経済の中心地として建設された。多くの人が住み多くの物資を輸送する必要がある。当時、大量輸送ができるのは舟しかなく、名古屋は舟が入ることができる川がなかったので開削された。

 〔説の検討〕……城下町と一体で計画した運河
 江戸時代の名古屋の人口は、9万人ほどと推定されている。
 都市と田舎の一番の違いは、都市は人が生きてゆくのにどうしても必要な食料や燃料を自給できないことである。9万人もの人が日々消費する米や薪・炭などを、絶えず補充できないと名古屋の町は存続できない。

 米俵(一俵60㎏)で、当時の輸送能力を比較すると次のようになる。
  人……1俵、 馬……2俵、大八車……10俵?(数人がかり)、 舟……300石積みなら750俵 
   圧倒的に舟の輸送能力が高い。城下の人々が必要とするものは米の他にも、塩・味噌・醤油・薪・炭・木材など大量の物資になる。
 堀川の開削時期が城の建設と併行して行われ、堀川岸のほとんどは町家に割り当てられて町人による輸送の便が図られていることも考えると、堀川は都市基盤の一つとして町と一体で計画された運河と考えるのが妥当である。今、ニュータウンを建設するにあたり、町への道路や規模によっては鉄道が新設されるのと同じことが行われたのである。
 
舟で賑わう堀川 『尾張名所図会』



開削の謎 その2……自然河川はあったのか
 堀川が出来る前、堀川の位置に川が流れておりそれを拡幅したのだろうか。あるいは何もないところに新しい川を掘ったのだろうか。堀川は短期間で造られているので、以前からあった川を拡幅しただけという説もあるが、実際はどうだったのだろうか。

◇記録や伝承では?
 城下町が出来る以前に書かれた絵図や伝承は見つかっていない。
 築城以前の様子を記録したものに『金城温古録』所収の「御城取大体之図」があるが、川らしいものは描かれていない。

◇地形から推察すると?
 城下町は周辺より約10m高い名古屋台地の上に造られている。台地の西を堀川は流れているが、どのあたりを流れているのか、地形の断面を調べると次のようになる。

 
    台地西側には低平地へ続く斜面があるが、堀川が流れているのは斜面を下りきったところではなく、斜面の途中であり、下りきったあたりには江川(現:道路の江川線)がある。
 江川は農業用水にも使われており永い年月の間に人の手で改変が加えられているものの、斜面の下という位置から考えると、台地から流れた水が集まってできた自然河川が前身と考えられる。
 台地の上に降った雨が斜面を流れ下る途中で向きを変えて横に流れてゆくことは、自然界では起こりえず、このことから堀川の前身に自然河川はなく、何もない斜面途中に掘られたと考えられる。

  ◇なぜ 斜面の途中に新設したのか
 堀川と平行して流れる江川を堀川にすれば、工事の負担は軽減される。 なぜ手間のかかる斜面に新設したのだろうか。
 理由の一つとしては、少しでも城下町に近いところに輸送路を造った方が便が良いということが考えられる。しかし、1番の理由は、満潮時の海水氾濫を防ぎつつ舟の航行を確保し、併せて排水能力の向上をはかるためである。

 江川は低湿地を流れる川で、しかも上下流の標高差が少なかった。浅間町南あたりで標高2.2m位、白鳥の西では0.5mほどで満潮時には海面の方が高くなる。大雨が降ると溢れやすく水が引きにくい川であった。これを拡幅し川底を深くして河川断面を大きくしても、下流部では満潮時に排水が出来ず、しかも舟を通すために川と海の間を解放にしておくと海水が浸入して耕地は海になってしまう。これを防ぐには川の両岸に堤防を築かなければならない。
 斜面の途中に新しい川を掘れば、これらの問題を解決できる。堀川の朝日橋付近の標高は5.3m位で白鳥付近は1.7mほどあり、満潮時でも護岸を超えて海水が浸入することがなく、不十分ながらも縦断勾配がとれ排水能力を確保できる。このため、斜面途中に堀川を造ることになったと考えられる。

  
 
明治33年地形図


開削の謎 その3……何年に造られたのか?
◇記録では二つの説
 古文書には開削した年として慶長15年と16年の、二つの記録が見られる。
 ・慶長15年 …… 『地方古義』
(1610) 「堀川慶長十五戌六月朔日(1日)、今日名古屋為普請、伊勢・美濃両国之先方衆参着、千石に夫一人づゝを出、城下船入を掘」
※『金府紀較補遺』『洲崎神社記録』も15年
 ・慶長16年 …… 『張州旧話略』
(1611) 慶長16年6月1日の條に
「今日より名古屋為普請、美濃、伊勢両國先方衆参着、大名千石に夫壱人宛被出、城下舟入ヲ掘、白鳥ノ辺別ニ堀川ヲ構フ、爾今大夫堀ト云、福島左衛門大夫被申付ト云」

 書名に「古義」「旧話」という言葉があり、どちらも開削当時の記録ではなく、ずっと後の時代に書かれたものだ。内容はほぼ同じで年が異なるだけなので、元は一つの話が伝承される間にずれてきたのであろう。
 しかし、この記録からだけでは、どちらが正しいのか判断できない。

◇築城工事に先行して排水路開削
・排水路が堀川になった……『金城温古録』の記載
「(城の)御普請中、若し大雨降る度毎に、此大堀土取場の所々水溜り、池と成ては、再び土掘出し難きに依り、先づ取懸り以前、其用心に南地の低みへ掘割を付けて、沼溜りの水無之やう、海辺の方へ引落させたる江筋の跡が、後に堀川と可成濫觴にて有りしとなり。その堀川もいまだ出来らざる先きに、熱田の海底より名古屋の方へ一里半四町許り、堀割の積り有之時、名古屋の地は南海底より 八尺高しと積りしは、今、堀川堀詰町の辺の事なるべし。夫より此大堀の地は、三間計りも高みなれば、凡そ此大堀の深さ、二間也。三間掘りても其堀底 の溜り水は、快く南涯の堀割筋より、熱田海の方へ引落すべきなり。」

 名古屋城は台地の上に造られるが、台地の北には御深井と呼ばれる湿地帯が広がり自然の要害をなしていた。ここに深さ2間(3.6m)もの堀を造らなければならない。築城工事に先立って工事中の降雨が溜まらないように熱田まで排水路を掘り、工事が出来るようにした。この排水路が堀川になったという趣旨である。

 現代でも土木工事に排水は不可欠だ。今はほとんどがポンプで行なわれるが、江戸時代は排水路を掘り標高差を利用して排水するしかない。
 どのような排水路を掘れば良いか検討してみた。
 城の西側(堀の排水路である辰之口西)の標高は5mほどで、水面は標高3.7mである。昔の水深は2間(3.6m)なので、堀底の標高は0.1mだ。堀や石垣の工事中に水が溜まらないように、堀の底より多少深い排水路が掘られたと考えられる。

 石垣工事に先立って堀の掘削が行われ、それに先だって(あるいは併行して)排水路が造られたと考えられる。慶長15年(1610)閏2月8日に、駿府にいたお手伝い普請の大名たちが名古屋に向かったとの記録がある。6月3日に石垣の根石(いちばん下の基礎となる石)置きが行われたが、閏2月から5月までに排水路や堀の工事が行われた。

 排水路の幅や深さは堀川とほぼ同じ規模と考えられる。
 『地方古義』に「五条橋、右慶長十五戌年出来、清須五条川之橋を爰に移す、葱頭株(ぎぼし)に慶長七寅年と有之」とある。築城工事には膨大な数の作業員が動員され、石などの重量物も大量に運び込まれた。交通が輻輳し将来は運河にする計画もあるので、使い勝手の悪い仮橋ではなく清洲から五条橋(五條橋)を移設して使用したと考えられる。橋を架けるには両岸に石で橋台を築き、川中に橋脚を建てなければならない。このため、五条橋が架けられた時、排水路の幅や深さは後の堀川とほぼ同じ大きさだったと推測される。

  ◇慶長16年 排水路を運河に整備
 『金城温古録』の記載では、この排水路を堀川にしたということだが、それは慶長15・16年のどちらだったのだろうか。

 関連すると思われる記録に次のものがある。
・慶長15年12月25日  …… 伊勢と美濃の先方衆、及び三河の在国衆へ、明春の名古屋普請が命じられる 
・ 〃 16年1月22日 ……  大工棟梁の岡部又右衛門らが熱田から名古屋まで舟入りの水準測定を行う
・ 〃  2月2日 …… 築城のお手伝い普請をした大名20人に対して、1000石につき1人の人夫を出して手伝えとの命令が出た
 16年1月に水準測量を行っていることを、完成した堀川の水深などの測量をしたと解釈して、15年に堀川が完成しているとする説もあるが、間違いと考えられる。
 15年12月に伊勢などの先方衆(国人、地付の豪族)へ翌年のお手伝い普請を予告し、翌1月に排水路の水深などを測量して舟入(運河)にするための工事計画を立て、2月に大名へ手伝いの人夫を出すように命令したと考える方が順当であろう。このような準備を経て、16年6月1日から排水路を掘り下げたり護岸を整備するなど工事が行われ、舟入(堀川)が完成した。

 このように堀川は、築城工事に必要な排水路として慶長15年(1610)に原型が出来、翌16年にそれを改修して運河としての機能を持つようになったと考えられる。
  



開削の謎 その4……どんな規模の工事だったのか?
 堀川の開削工事はどんな規模の工事だったのだろうか。単に城下と熱田の海をつなぐ水路を掘っただけなのか、それ以外に関連する工事も行われたのだろうか。

◇堀川開削で減少した耕地
 堀川が流れる村は、上流から広井・日置・露橋・古渡・五女子(ごにょうし)の5か村と熱田神領である。『寛文村々覚書』の記載では、堀川開削による農地の減少面積は次の通りだ。
   上流部の広井村と日置村は堀川だけでなく侍屋敷地にも耕地が転用されているので、堀川による減少面積は不明である。堀川により減少した古渡村と五女子村を見ると、平均減少幅は120・136mである。
 このあたりの堀川の幅は25〜30m、両岸の道路を加えても70〜80m程度しかない。その差の50mはどうして発生したのだろうか。また、120mはどこまでだろうか。

   ◇掘削土で江川まで宅地造成
 堀川を掘ることで大量の土砂が発生する。現代ならダンプカーで掘削土を遠い埋立地へ運ぶことができるが、この時代は近隣で処分するしかない。堀川の開削に併せて両岸に道路を築造し、さらにその先まで掘削土を敷き均したと考えられる。

 古渡村まで、堀川と江川はほぼ平行して流れていた。堀川左岸の道路東端から西に向かって120m行くと、ほぼ江川に達する。また、江戸時代の地図では、堀川と江川の間には千石以上の武士の下屋敷が並んでいる。堀川の土は江川までの田畑に敷き均されて藩有地となり、その土地は武士の屋敷に利用されたのである。

 堀川の開削は単に堀川を掘っただけでなく、沿川地域の宅地開発も併せて行われた事業である。昭和の初めに中川運河が開削されているが、このときも掘削土を両岸に盛り工場敷地を造成している。この二つの運河は同じ手法が採用されているのである。

『尾府名古屋図』





 2007/11/17・2021/06/15改訂