堀川の名前 
   人には名前があり、川にも名前がある。
 人の名は出生届を出し、戸籍に記載されることで確定する。川の名は何で決まっているのだろうか。
 人には、本名のほか通称やあだ名がある人もいる。堀川の上流部は黒川と呼ばれることがある。これはあだ名なのだろうか。
 「堀川」といつから呼ばれ、どこからどこまでが堀川なのだろう。

    生まれた時の名は 堀川   堀川+大幸川   堀川+黒川+庄内用水
    庄内用水+
   準用河川(古川+黒川+堀川)
  (新)河川法により 二級河川に   一級河川 堀川



生まれた時の名は 堀川
   堀川は、慶長15年(1610)の名古屋築城と同じ頃に開削された。その時の川は名古屋城の西、今の朝日橋から当時は海岸であった熱田の白鳥までである。朝日橋より上流はなく堀留(行き止まり)になっていた。
 この時の名は「堀川」。今のように法律や告示という制度もない時代なので、皆が呼ぶ名が川の名前だ。誰かが命名したと言うわけでなく、人工的に掘って造った川だから「堀川」と呼ばれるようになったのであろう。

 堀川という名の川は全国各地に見られる。京都の堀川は平安京築造のときに造られた川で、二条城の前を流れているのがそれだ。松江の堀川はお城を囲むようにして流れている。「堀川」という名前は、人間でいえば「太郎」「次郎」といった、安直でありふれた名であるが、それだけに親しみやすい名でもある。



堀川 + 大幸川
   天明4年(1784)冬に、それまで現在の東区大幸町あたりから流れ出し、城北を西へ流れて笈瀬川に注いでいた大幸川が堀川につなぎ変えられた。
 堀川がお城から北東に伸びたのである。この時の名は、それまでの堀川は「堀川」、新たに接続された大幸川は「大幸川」であり、一つの水系なのだが、今の朝日橋を境に上流部と下流部で違った名で呼ばれるようになった。

 今の感覚では違和感があるが、当時の川の名は地域で異なるのが普通である。庄内川も「玉野川」「勝川」「稲葉地川」など異なる名で呼ばれていたのである。また、大幸川にとっては流入先が笈瀬川から堀川に変わっただけで、大幸川は大幸川なのである。



堀川 + 黒川 + 庄内用水
   明治10年(1877)に、今の水分橋のところで庄内川から取水し、矢田川をくぐり堀川に達する水路がひらかれた。これにより、今の堀川の姿になったのである。
 この工事は、1筋の水路を開削しただけではなく、この地域の水系を大きく変える事業であった。庄内用水はそれまでは龍泉寺の近くで庄内川から取水して御用水と一緒に流れていたが、この新しい水路を利用するようになった。また、三階橋の北では古川が新しい水路に合流するようになった。矢田川は伏越(ふせこし、水路トンネル)でくぐり、南岸に設けられた分水池へと流れ込み、ここで庄内用水・御用水・上飯田用水などへと分水されていた。その先は堀川へ水路が伸びているが、その下流部はそれまでの大幸川を改修して利用している。
 この大工事を行なったのは、愛知県技師の黒川治愿(はるよし)であった。そのため新しい川は開削者の名から「黒川」と名づけられた。

 ここで問題になるのは、黒川はどこからどこまでかということである。当時は(旧)河川法施行以前であり、告示などの手続きも行なわれていない。はっきりとした記録は無いので、昔の記録から推定するしかない。
 明治44年(1911)発行の『庄内用水元樋及矢田川伏越樋改築紀念』という本がある。
   これには「矢田川北岸に達する300間の水路を開削し、更に一條の水路を開削して堀川に連絡せしめ、今の黒川と称するもの是なり」「黒川の如きは、旧時庄内用水の流源たりし山下八ヶ村の悪水及び用水剰余の流水を放流するの一水溝の用を成す」という記載がある。「黒川」は今の守山区西部の排水や、庄内用水の余剰水を流すのに使われているとしており、分水池より下流を「黒川」と呼んでいたことがわかる。
 また、分水池から黒川へ流れ出すところの樋門は「黒川樋門」と呼ばれていた。

 当時は、庄内川の取水口から分水池までは「庄内用水」、分水池から朝日橋までが「黒川」、朝日橋から河口までが「堀川」と一般に呼ばれていたのである。



庄内用水 + 準用河川 (古川 + 黒川 + 堀川)
  ◇河川法制定……明治29年(1896)
 河川を管理する元となる法律が河川法だ。明治29年(1896)に制定されている。
 この時の河川法は治水と利水を主目的としており「区間主義河川管理制度」といって、現在のように一つの水系として管理するのではなく、法を適用する必要がある区間を決めて管理する考え方をとっている。

◇準用河川 堀川……大正6年(1917)
 この法律は治水を主目的にしているので、そのような問題が少なかった堀川に適用されるようになったのは、施行からずいぶん後だ。
 大正6年(1917)3月22日 愛知県告示第98号「河川法準用河川認定」により
「堀川 右岸 愛知県名古屋市西区塩町・左岸 愛知県名古屋市西区長畝町旭(ママ、朝日)橋以下海ニ至ル」と告示され、4月1日より朝日橋より下流が準用河川「堀川」になった。

◇準用河川 黒川……昭和5年(1930)
 さらに、昭和5年(1930)10月21日には 愛知県告示第895号「河川法準用河川認定」により、
「黒川 左岸 西春日井郡萩野村大字辻村字古新田・右岸 同 同 同 同 矢田川交叉点以下堀川既準用区域界ニ至ル」と告示され、11月1日からは、矢田川の南にあった分水池から朝日橋までが準用河川「黒川」になったのである。今でも通称として使われている「黒川」は、かつては正式の河川名だったのである。

◇準用河川 古川……昭和34年(1956)
 これに加えて、昭和34年(1956)1月24日 愛知県告示第32号 「河川法の規定を準用する河川認定」により
「古川 左岸 守山市大字大森垣外字欠口63番・右岸 同市大字同字同61番地先以下黒川に至る。」と告示され、準用河川「古川」が認定された。
 古川は、現在は堀川岸に建つ「守西ポンプ所」により矢田川へ排水されている。このため堀川とは別の川という感覚がもたれているが、ポンプ所設置以前は堀川に流入する支川であった。この告示により、今の堀川のうち守西ポンプ所附近から黒川までの区間は、法律上は準用河川「古川」になったのである。

 庄内川の取水口から黒川までを準用河川にするのではなく支川の古川を認定したのは、大雨の時には古川から大量の水が流入し、治水上の問題が大きいからである。庄内川の取水口から古川合流点までの区間は、取水口の樋門で流す量をコントロールでき、治水上の問題はほとんどないが、古川は昔から「あばれ川」として知られ、周辺に低湿地が広がり対策が急がれていた。
  
  ◇庄内用水 名古屋市の管理へ……大正12年(1923)
 一方庄内用水の管理は、明治18年(1885)に設立された「庄内用水水利土功会」が、さらに明治32年(1899)からはそれが発展した「庄内用水普通水利組合」が行い、大正12年(1923)には名古屋市へ移管されている。庄内川の取水口から三階橋南の分水池を経て流末である南部の干拓新田まで「庄内用水」として管理していた。古川が準用河川に指定されることで、一部の区間は「庄内用水」と「古川」の重複区間になったのである。

◇堀川……4つの川の連合体
 このように、区間主義河川管理を採用していた旧河川法のもと、今の堀川は法律の上では上流から「庄内用水」「古川」「黒川」「堀川」と4つの川がつながった川になったのである。



(新)河川法により 二級河川に
   昭和40年(1965)に、新たな河川法が施行された。
 この法律は、これまでの考え方を大きく変え、一つの水系を一貫して管理する「水系一貫管理」を採用した。
 しかし、河川法施行法の規定では「旧法の準用河川は、一級河川に指定されなければ二級河川になる」とされている。これにより、従前の「古川」「黒川」「堀川」は、それぞれ準用河川から新法の二級河川になった。



一級河川 堀川の誕生
   (新)河川法の施行から遅れること4年、昭和44年(1969)に庄内川取水口から海までの区間が、一級河川「堀川」に指定された。現在の堀川の誕生である。

 これにより、それまで正式の名称であった「黒川」はなくなった。明治10年(1877)に開削した黒川治愿の名から付けられ、約90年の長きにわたって親しまれていた名称であり、今も通称として堀川上流部を「黒川」と呼ぶ人は多い。交差点名や地下鉄の駅名に「黒川」が残され、昭和44年以前に架けられた橋の親柱には、かつての正式名称「黒川」の名が刻まれている。
   なお、庄内川取水口から三階橋南の堀川と庄内用水が分流する地点までは、河川法上では「堀川」だが、農業用水を送る庄内用水でもある。このため、取水口は「庄内用水元杁樋門」、矢田川をくぐる施設は「庄内用水矢田川伏越」と呼ばれている。 




 2006/03/27・2021/06/09改訂