大正の技術を伝える   
  中橋 
   五條橋と桜橋の間にひっそりとたたずむ中橋。あまり名前は知られていないが、堀川開削当時に架けられた堀川七橋の一つ。今堀川に架かる橋では一番古く、近くには屋根神様や蔵の並ぶ四間道があり、静かで落ち着いた雰囲気に包まれている。

    商工業の拠点を結ぶ 中橋   大正の技術を伝える橋



商工業の拠点を結ぶ 中橋
   江戸時代から架かる「堀川七橋」の一つで、五條橋と伝馬橋の中間なので「中橋」と名付けられた。

 橋の東側は元材木町・上材木町・下材木町など、木材や竹・薪・炭などを扱う商人が多く住み、西側は米・味噌・醤油・肥料等を扱う商人が、堀川岸には河岸蔵を建て美濃街道を挟んだ西側に店舗と住居を構えていた。堀川の舟運や筏による輸送により繁栄し、城下町の流通基地・問屋街・木材団地などの性格をもつ地域である。両岸を結ぶ中橋は、城下町の産業に無くてはならない橋であった。

 繁栄する地域の様子は『尾張名所図会』に材木町の祭礼風景が「當府之繁昌」(名古屋の繁栄の意)というタイトルで掲載されている。町を挙げての盛大なお祭り……まさに地域の経済力と団結力がなければ行えず、盛大で華麗なここの祭りは名古屋の繁栄を象徴するものであった。

 


當府之繁昌 『尾張名所図会』
 

                  『尾張名陽図会』に描かれた 中橋風景



 「近年、中橋東に植木・石燈篭・山海の珍石を商う家があり、中橋の近くにならべ置いている。その様子は自然の深山のようで、春の頃は市井にはまれな眺めである」という趣旨のことが書かれている。舟で運んできた植木や庭石を陸揚げして仮置きしてある様子が、きれいな堀川の流れとともに風趣のある光景になっていたのであろう。 
  



大正の技術を伝える橋
  ◇木橋時代
 名古屋の城下町は何度も大火に見舞われている。昔の橋は木橋なので、周辺に商家が密集する中橋も、元禄の大火(元禄13年:1700)、享保の大火(享保9年:1724)で焼け落ちた記録が残されている。
 明治24年(1891)の濃尾地震では、舟の衝突と川水の増加により納屋橋や大幸橋とともに損傷して、中橋は通行止めになっている。翌25年に改築され、さらに43年(1910)に修理している。

◇大正6年 鋼製桁橋に改築
 大正6年(1917)9月に鉄橋に改築され、今架けられているのはその時の橋だ。むろん堀川に架かる中で一番古い橋である。
 架けられた時代を反映して今では珍しい構造だ。橋台は石積みで、橋脚は細い鉄材をリベットで接合して造られている。平成26年(2014)に市民の寄附により欄干と床板の改築が行われ上部構造がリフォームされた。100歳を超える高齢だが、未だかくしゃくとして現役である。

◇共同物揚場・係留環・伊勢湾台風水位表示
 橋だけでなく付帯施設もかつての姿をよく残している。
 橋のたもとには舟運が盛んな頃、水陸の輸送を繋いだ共同物揚場が残り、護岸には舟を舫う綱を結んだ環が赤錆びた姿を留めている。舟から岸へ足場板を架け、石畳のスロープを上がって道路で待つ大八車などへと積み替えたのである。
 東南橋詰のスロープには伊勢湾台風での堀川最高水位を示す表示がある。道路のすぐ下まで水が来たが、何とかオーバーフローすることは免れた。あれほどの大災害でありながら堀川上流部はよく持ちこたえたものだと感心する。

 地域のランドマークであり、かつての技術を伝える貴重な財産である中橋は、平成23年(2011)に認定地域建造物資産に指定されている。
 
 
「大正六年九月」
 
細い鉄骨の橋脚・石積みの橋台
 
水面へ降りる共同物揚場跡
   
今では珍しい
リベット締め
 
川岸に残る赤さびた係留環
艀や筏が盛んに通行した堀川は、
至る所にこのような係留施設がある

伊勢湾台風では、路面近くまで水位が上がった



 2021/05/27改訂