五條橋 
   円頓寺商店街の入口に架かる五條橋。擬宝珠(ぎぼし)、石の欄干、石畳の舗装…時代を感じさせる特徴のある橋だ。納屋橋とともに「都市景観重要建築物等」に指定されている。

    清洲越しの橋   両岸を結ぶ橋
   川と陸を結ぶ橋詰
  木製アーチ橋に変わった五條橋
    緋牡丹のお竜 南西物揚場   橋の名は五条橋? 五條橋?  



清洲越しの橋
   この橋は堀川七橋のひとつ。堀川七橋とは、堀川開削のころに架けられた七つの橋をいう。上流から五條橋・中橋・伝馬橋・納屋橋・日置橋・古渡橋・尾頭橋で五條橋は一番上流に架けられた橋である。

 五條橋は清洲から移築されたといわれている。擬宝珠の銘に堀川が開削された慶長15年(1610)より古い「慶長七年」とあるからだ。
 「清洲越し」といって、名古屋の街は名古屋城築城のときに清洲から街ぐるみ引っ越してできた。住民も神社や寺院も引っ越してきた。五條橋もこの時に清洲城のそばを流れる五条川に架かっていたのを解体して運んできたと伝えられている。
 今も時代を感じさせる擬宝珠が付いているが、これはレプリカであり本物は名古屋城で保管されている。

「慶長七年」の銘
 
         江戸時代の五条橋風景(北東から南西方向) 『尾張名陽図会』

 たくさんの人が橋を通り、川岸には何艘もの舟が係留され、橋のたもとには荷揚げをするための階段が設けられている。重い荷を積んだ大八車や天秤棒を肩にした人も行き交い、街の活気を感じさせる。
 堀川の西岸(右側)は河岸蔵が立ち並び、東岸は材木や竹が立ち並び薪らしきものが高く積み上げられている。西岸は米・味噌・醤油・塩・肥料などを扱う商人が多く、商品は蔵にしまわれた。東岸は材木三か町と呼ばれ、材木など雨に濡れても良い商品を扱う商人が多く露天で保管したので、両岸は全く異なる風景となっている。
  



両岸を結ぶ橋 川と陸を結ぶ橋詰
   五條橋は伝馬橋のような街道ではないが、旅人がたくさん通る橋であった。
美濃街道を西から来て、城下に入るのに一番便利な橋だからである。とりわけ名古屋から稲置街道(木曽街道・上街道)や下街道・瀬戸街道へは最短距離になる。また城下の賑わいを見物するにもこの橋を渡り本町通を通るのが良い。このため、朝鮮通信使や琉球使節が通行し、将軍に献上された象も五條橋を渡っていった。

 橋は川の両岸を結ぶとともに、川と陸とを結ぶ場所でもあった。
 堀川は熱田の浜から名古屋城下への幹線輸送路であり、毎日多くの舟が行きかいたくさんの荷物が運ばれていた。川岸の蔵へ出し入れする荷物は直接接岸して積み降ろしされたが、他の場所へ運ぶ荷は橋のたもとで荷役されていた。かつて橋のたもとには誰でも使える「公共物揚場」があり、ここで舟から降ろして市内へと運んでいったのである。五條橋の橋詰にあるスロープは川と道を結ぶ荷揚げのための場所であった

幅は狭くなったが、
今も残る物揚場。
「公共物揚場」と彫られた
セメント柱があったが、
今は失われた。



木製アーチ橋に変わった五條橋、今も残る痕跡
   江戸時代の五條橋は木橋なので腐朽するたび、何度も架け替えられたが、絵図に残されている姿は、橋脚付の桁橋である。
 明治34年(1901)、五條橋が架け替えられた。江戸時代と同様に木橋だが、形状はアーチ橋に変わった。
 木製の橋脚は、絶えず水に浸かっており腐りやすい。また、名古屋は城下町から近代的な産業都市に変身し、堀川を行き来する艀も比較にならないほど増えた。このため、橋脚のないアーチ構造が採用されたのであろう。長さが14間5尺4寸(27.1m)、幅が4間1寸(7.3m)の橋である。昭和11年に撮影された写真を見ると、荷重を支えるアーチ部は4本の木材を重ねた集成材で造られている。6本のアーチで桁からの荷重を受け止め、そのアーチは両岸の橋台に造られた沓(シュー、受台)で支えられていた。

 昭和13年(1938)に今も使われている橋脚が2本ある鉄筋コンクリートの桁橋に架け替えられ、不要になった橋台のアーチ支承部はモルタルで埋められた。今の五條橋橋台に残る窓をモルタルで埋めたような6個の跡は、木造アーチ橋だった明治の五條橋の痕跡なのである。

 木造アーチ橋は錦帯橋など江戸時代から架けられているが非常に数が少なく、明治から大正中期にかけて西洋式の木造アーチ橋が架けられた。しかし木造の桁橋やトラス橋に比べると非常に少なく、土木学会で平成16年(2004)に報告された資料では全国で42橋(五條橋は調査漏れ)だけとなっている。


上流からの五條橋
撮影時期不明(明治34年~昭和13年)


昭和11年撮影
 
  今も残る、木製アーチ橋の沓跡



緋牡丹のお竜 南西物揚場
   昔の雰囲気を残す橋と橋詰のスロープは映画の撮影にも使われた。

 昭和44年(1969)封切りの「緋牡丹博徒 花札勝負」は明治中頃の名古屋が舞台だ。大須観音や旧名古屋駅風景、南利明の名古屋弁がちりばめられ、藤純子(緋牡丹のお竜)と高倉健が初めて出会うのが堀川の東海道線橋梁の下、ラストシーンも雪の積もる東海道線橋梁下の堀川岸という設定である。

 ほとんどはセットでの撮影だが一か所だけ五條橋でのロケが挿入されている。南西橋詰の物揚場でのシーンは堀川の水面と対岸に立ち並ぶ木材が垣間見え、五條橋を東へ渡る高倉健と後を追う藤純子の背景には、よく見ると撮影時の街路灯が写っている。名古屋を舞台にした数少ない映画の一つで、名古屋が城下町から産業都市へと変身し、開通したばかりの東海道線と輸送幹線の堀川という、明治中期の名古屋をよくとらえた作品である。

五條橋南西物揚場跡で撮影
二人が立っている向こうが堀川
女性が藤純子、
足だけ写っているのが高倉健


五條橋を西から東へ渡るシーン
高倉健の後を追いかける藤純子
よく見ると、藤純子の頭上に昭和40年代にはやったデザインの街路灯が写っている
 


橋の名は五条橋?  五條橋?
   橋の名はかつては五条橋、あるいは旧町名から上畠(うわはた)橋とも呼ばれていた。擬宝珠の表示は「五条橋」であるが、江戸時代の文献でも『尾張名陽図会』は「五条橋」と「五條橋」の両者を使っている。
 明治11年(1878)の『名古屋明細図』では「五條ハシ」と表記され、現地での表示は明治34年に木造アーチ橋で改築された橋には「五條橋」の橋銘板が付いており、その後、昭和13年に改築された今の橋も橋名板は「五條橋」の表示になっている。
   
擬宝珠の表示は五条橋
 
上畠橋と表示された地図
『宝暦十二(1762)午改 名護屋路見大図』


『名古屋明細図』
 明治11年
       



 2021/05/26改訂