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小栗橋の南西と南東の橋付近 は、「泥の河」のロケが行われた場所である。
◇「泥の河」とは
「泥の河」は宮本輝(昭和22年生)が昭和52年(1977)に発表した小説で、56年(1981)に小栗康平(昭和20年生)の監督により映画化された。概略、次の内容である。
舞台は昭和31年(1956)の土佐堀川(大阪)だ。川岸の小さな食堂の子である男の子は、ある日対岸に係留されるようになった家船で暮らす母子家庭(母・姉・弟)の子と知り合いになる。母子家庭の母は、船で売春をして生計を立てていた。
男の子が家船に遊びに行ったり、姉・弟が男の子の家に来たりする様子を男の子の視点で淡々と描写している。戦争が終わって10年たち、もはや戦後ではないと言われながらも社会の底辺で必死に生きている人々の姿、大人たち(復員兵)に残る心の傷などもさりげなく表現し、この時代を感じさせる。そして、ある日家船は別れを告げる事なくいずこかへ行ってしまった。
男の子の父親は田村高廣、母親は藤田弓子、母子家庭の母親は加賀まりこ、その外殿山泰司、芦屋雁之助などが出演している。
ロケで男の子が暮らす食堂を建てたのが、小栗橋南西の地蔵堂の下、家船が係留されたのはその対岸である橋南東の岸辺である。
公開されると大きな反響を呼び、キネマ旬報第1位、毎日映画コンクール最優秀作品賞、ブルーリボン賞最優秀作品賞、モスクワ国際映画銀賞など、数多くの受賞をしている。
◇なぜ中川運河で?
封切りの前年の昭和55年(1980)の撮影だが、舞台の大阪には31年(1956)頃の面影を残す川がなかった。小栗監督が各地を回り見つけたのが、中川運河の小栗橋である。
そのことについて小栗康平は前田英樹(文学者・評論家)との対談で次のように語っている。
○前田
ところで、この映画は、最初のカットから最後まで、一つの”場所″を濃密に現われさせる作品になっていますね。主役は、河だと言ってもいい。いたって低予算という条件を課されたこの映画にとっては、よいロケ地を見つけ出すことがまさに成否の鍵だったでしょう。全国を探し歩いた末に、とうとう名古屋にある運河の跡を見つけられたそうですね。
○小栗
舞台は大都市の河口付近の話ですから、昭和30年(1955)代の風景などもちろんのこと、どこにもそんなものは残っていません。設定として、人の暮らしと川とが隔てられていては成り立ちませんので、それが難しかったですね。
名古屋で捨て去られたような運河に出会った時には僥倖とすら思いました。道路から石段が降りていて、川辺に空き地がありました。
さほど広くはないのですが、かつて艀が行き来していた時には荷物の上げ下ろし場だったそうです。そこに食堂のオープン・セッ卜を組んだのです。
撮影された頃は、中川運河が一番くすんでいた時代である。艀輸送はほとんどなくなり、静かな水面と古びた倉庫が建ち並んで、「捨て去られたような運河」という表現がぴったりする。
映画が封切られた2年後の昭和58年(1983)に第1回のなごやレガッタが行われて、その後運河再生について模索が始まった。平成24年(2012)に「中川運河再生計画」が策定され、名古屋駅に近い長良橋より上流は「にぎわいゾーン」として再生することになった。今はまだ映画撮影時の雰囲気が残されているが、再整備が進むとすっかり変貌して映画の雰囲気とは全く逆の「賑やか・華やか・モダン」な地域に変わってゆく事であろう。
◇堀川の住吉橋も1カット
話の舞台は専ら小栗橋だが、最後に1カットだけだが堀川の住吉橋も写っている。
家船は別れを告げる事なく去って行ったので、食堂の子供が川岸を走って船を追いかける。途中、いくつもの橋をくぐり曳舟に引かれて家船はゆく。
その橋の一つが住吉橋である。子供が橋の欄干によじ登り去りゆく船を眺める風景が収められている。他にもいくつか橋が写るが、堀川や中川運河のものではなく、大阪など他都市の橋と思われる。
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