堀川と中川運河を結ぶ
松重閘門
 堀川岸でひときわ目立つレトロな塔は松重閘門である。艀輸送が盛んだった時代に、堀川と中川運河を結ぶ閘門のゲートを昇降させていた施設だ。名古屋の舟運を支えてきたが、今は静かにたたずんでいる。


    運河網計画   中川運河建設と閘門式運河   昭和6年使用開始
    戦災復興・高度成長を支える   昭和43年運用停止  



運河網計画
◇運河網計画
 大正13年(1924)6月、運河網計画が内閣の認可を受けた。
  中川・荒子川・山崎川・大江川を改修して新しい運河にし、併せて既にある堀川・新堀川も改修する。またこれらの幹線運河の間をつなぐ支線を設け、相互に行き来できるようにして運河の網を構築するという計画である。
 この時代、鉄道も整備されてきたが、駅から工場への輸送は馬車や大八車など貧弱な手段しか無く、大量輸送には艀が必要であった。このため、運河の網の目を造り地域の発展をはかるという趣旨である。




中川運河建設と閘門式運河
◇中川運河を最初
 計画の中で最初に着手したのが中川運河だ。
 距離が長く内陸部まで入り込み、北端には貨物駅を設けて名古屋港の海運と鉄道輸送を連絡することが出来る。沿川は農地だが、港の後背地なので工場の建設に適しており、低湿地だが掘削土を使って土盛りすることで良好な工業地帯を造ることが可能だ。また、堀川と繋がる支線により、限界に達していた堀川の混雑を緩和するバイパスとしての機能も持たせることにした。

◇閘門式運河
 運河網計画で新たに開削される運河はすべて閘門式で造ることにした。
 それまでの堀川や新堀川は潮の干満の影響があり、干潮になると水深が浅く少し大きな艀は航行できなくなるので潮待ちをする必要があった。24時間いつでも使える近代的な運河を計画したのである。

◇中川運河の閘門
 このため、海に面した中川口と堀川に面した松重に閘門を設けて締め切り、平均2.9m(『名古屋港案内』昭和11年版では2.1m)の水深を確保することにした。

 松重閘門の閘塔は2組で4基、鉄骨鉄筋コンクリート造で一部花崗岩張り。堀川側の高さは21.61m、中川運河側は少し低い20.18mである。塔を繋ぐ鋼製作業橋2基は、それぞれ全長約12mであり、そこから上下に動くストーニー式鋼製扉2枚が吊り下げられていた。閘塔の中には、扉の重量とバランスを取る錘が吊り下げられ、上に登るための梯子が壁に付けられている。通船路は幅5間(9.1m)、長さが50間(91m)で鉄筋コンクリート造である。




松重閘門 昭和6年使用開始
 中川運河は大正15年(1926)10月1日に起工式が行われ、昭和5年(1930)10月10日に通水式が行われて25日から本線と北支線の利用が始まった。
 松重閘門のある東支線は翌6年(1931)7月25日に松重閘門から東海道線までの区間が、さらに7年(1932)12月20日に東海道線の下も通航できるようになり、運河全線が完成した。

 使いやすい中川運河はうなぎ登りに利用が増え、11年(1936)には出入りする船の数が堀川を超えるまでになった。
 中川運河から松重閘門を通って堀川上流部に向かう船も多い。渋滞する堀川の中下流部を通らないので、時間が3分の1に節約できるからだ。


完成間近の中川運河

完成間近の松重閘門




戦災復興・高度成長を支える
◇艀が渋滞 昭和38年 中川口に第2閘門増設
 太平洋戦争で壊滅的な打撃を受けた名古屋の復興やその後の高度成長にも松重閘門は活躍した。
 昭和30年代(1955~)が、戦後では堀川・中川運河に一番多く船が行き来していた時代である。日本の高度成長と歩調を合わせて名古屋の産業も急速に発展し、名古屋港で取り扱う貨物は毎年右肩上がりに増えていった。埠頭の整備も進められたが、艀による輸送も年々増えてゆく。ついに中川口閘門を通って中川運河に入るのに、10時間以上待たなければならないという異常事態になり、38年(1963)に中川口第二閘門が増設されている。

 松重閘門を通過する船の数は昭和30年(1955)がピークで、年間6,000隻余が出入りしている。堀川を通る艀の63%が閘門を利用していたのである。


『名古屋港平面図』 昭和21年


『名古屋港港湾施設現況図』

『名古屋港統計年表』より作成




 昭和43年運用停止
◇トラック輸送が躍進 昭和43年(1968)運用停止
 日本経済が発展すると共にトラックの台数が増え、道路の整備も進められた。昭和40年(1965)には名神高速道路、44年(1969)には東名高速道路が全線完成し、モータリゼーションの時代に入っていった。
 それまで堀川などを頻繁に行き来していた艀も急激にトラックに取って代わられ、30年代後半には年々数が減っていった。43年(1968)に堀川を通った船は入出川合わせて920隻で、戦後で最も多かった29年(1954)の8.8%、松重閘門を通った船はわずかに517隻で1日平均2隻にも満たない状態になった。この年の11月、松重閘門の運用が停止され、51年(1976)に廃止されている。


◇昭和61年(1986) 都市公園に
 昭和61年に閘門一帯は都市公園になり、閘門は市の指定有形文化財に、平成5年(1993)に市の都市景観重要建築物に指定された。

全国のトラック台数
統計局『車種別自動車保有台数』より作成


『名古屋港統計年表』より作成
◇平成20年(2008) 修復補強
 平成20・21年度に大規模な修復補強工事が行われた。
 内部にコンクリート壁や鉄骨の筋交を設置して耐震性を強化し、年月を経て中性化が進んでいたコンクリートの再アルカリ化を行い、併せて外壁や建具・灯具を修復して今後も長期間保存できるようにしている。かかった工事費は2億2000万円余である。

 翌22年(2010)度には、「近代名古屋の産業発展過程を示す重要なランドマーク」ということで、土木学会の選奨土木遺産に指定された。




 2021/09/03