日本唯一 戦前からの飾り板
岩井橋
 広小路が通る納屋橋に比べて、岩井橋は今ひとつ注目を浴びることが少ないが、大正後期の土木技術の粋を集めて造られた橋である。鋼製アーチ橋では、大阪の東横堀川に架かる本町橋に次いで日本で二番目に古い橋で、優美なアーチ、どっしりとした石の欄干、四隅に設けられた石造りの共同物揚場の川岸には舟を係留する石のビット(係留柱)があり、架けられた当時の土木技術と輸送幹線だった堀川の姿を今に伝えている。

    約100年前に架橋   関場茂樹・武田五一の設計   100年前の技術を今に伝える



約100年前に架橋
 大正9年(1920)に都市計画法が施行された。名古屋で最初の都市計画事業として、岩井線・高岳線・千早線・明道町線・大津町線の5幹線道路と東郊連絡線の整備が始まった。

 岩井線は中区の大池町7丁目から中区水主町までの2.38㎞に幅32.7mの道路を新設と拡幅により築造する事業である。大正11年(1922)2月に着工し13年8月に竣工している。
 この事業の一環として堀川には岩井橋が新設され、新堀川では記念橋が架け替えられた。いずれも当時の最新技術による近代橋である。


架橋当時の親柱と灯具



関場茂樹・武田五一の設計
 岩井橋の設計者は関場茂樹(1876~1942)である。
 関場は東京帝大土木工学科を卒業後、アメリカに渡りいくつかの橋梁会社で最新の設計・製作技術を学んだ。明治41年(1908)に帰国して、横川橋梁製作所(現:横川ブリッジ)の技師長を経て、大正8年(1919)に日本橋梁が設立されると移籍し、その頃に岩井橋の設計を行い、施工も日本橋梁が行っている。

 また、意匠は武田五一(1872~1938)の設計である。
 武田は東京帝大造家学科を卒業後、東京帝大の助教授やヨーロッパ留学を経て、大正7年(1958)から9年まで名古屋高等工業学校(現:名古屋工業大学)の校長を務め、岩井橋の架設当時は京都帝国大学の建築学科教授であった。

 当時の一流技術者の二人が岩井橋の設計を担当しており、名古屋市の近代化にかける意気込みが、この橋の架設に如実に表れている。
 橋は大正12年(1923)9月に完成し、建設には当時の額で431,000円という費用が費やされた。


100年前の技術を今に伝える
 この橋は戦前に作られた飾り板を持つ唯一の橋として知られている。全国の名だたる橋の飾り板も、すべて戦後に付け代えられたものだ。岩井橋は名古屋の誇る貴重な近代化遺産だ。
 橋が架けられた当時の堀川は輸送幹線であった。たくさんの艀が行き来し川岸では荷の積み下ろしが行なわれていた。岩井橋の4か所の橋詰めには、石階段の立派な共同物揚場が設けられ、その川岸には艀を舫うための石柱が建てられていた。
 岩井橋は平成19年(2007)に土木学会選奨土木遺産に、23年(2011)には市認定地域建造物資産に指定されている。


戦前からの飾り板

平成24年(2012)の共同物揚げ場(北西橋詰)
その後の護岸工事で、今は姿を変えている

かつて艀を舫った石柱
(北東橋詰)
今は存在しない

人目につかない
縁石の下も丁寧な加工
(北東橋詰)




 2021/07/01