錦通と桜通の喧騒に挟まれて、静かにたたずむ伝馬橋。
 堀川開削とともに架けられた「堀川七橋」の一つで、美濃街道(美濃路)が通り、堀川で一番賑わっていた橋である。

    便の良い美濃街道   美濃街道が通る 伝馬橋



便の良い美濃街道
   美濃街道は東海道の熱田宿と、中山道の垂井宿を結ぶ街道だ。
 主要街道である東海道と中山道は濃尾平野で一番接近している。このため、この場所で両街道を結ぶ道が造られたのだ。全長14里24丁(約58㎞)、7つの宿場が途中にあり、幕府の道中奉行が管理していた。

 この街道のメリットは大きい。京から垂井まで中山道を利用すれば、東海道の難所として知られる鈴鹿峠と、危険な七里の渡しを避けることが出来、熱田から江戸間で東海道を通れば、坂が多く険路の木曽谷を避けて江戸へと行けた。お茶壺道中〔元禄6年(1693)以降の帰路〕、朝鮮通信使、琉球使節〔正徳4年(1714)以降〕などが通り、大名行列もたくさん通った道だ。
 旅人だけでなく城下の人々にとっても身近な道であった。
 枇杷島橋を渡った西の下小田井(現:清須市西枇杷島町)には青物市場があり、大八車などで城下の人々に新鮮な野菜を運んでいたのはこの街道であった。また枇杷島橋は、城下の人々にとり少し足を延ばした水辺の行楽地で、季節の風情を楽しみに街道を西へ行く人も多く、一方では土器野(現:清須市土器野)にある刑場へ、広小路の牢獄から引き出された罪人が処刑されるため通っていったのもこの道である。

『日本全図』
元禄4年(1691)



美濃街道が通る 伝馬橋
   美濃街道が碁盤割りの城下へ入る所に架かる伝馬橋を『尾張名陽図会』は、「往来の貴賎絶間なく、賑しき所也」と記している。
 この橋を渡り東に800mほどゆくと、本町通との十字路で高札場や伝馬番所(会所)がある「札の辻」に着く。城下町なので本陣や正式の旅籠はなかったが、伝馬会所や宿屋があり城下の交通のターミナルである。旅人たちは伝馬橋まで来るといよいよ名古屋城下に着いたなあと安堵したであろう。
 都心に近いこのあたりの堀川は寛文3年(1663)から護岸も石積みで整備され、川岸には舟運や筏での輸送という立地を生かした材木屋・竹屋・薪屋が多く軒を並べていた。川面にはこれらを運搬してきた舟がもやわれ、美濃街道の陸運とともに堀川の水運も活気を呈していたところである。

『尾張名陽図会』
伝馬橋の北西は材木三か町なので、
岸には木材が立ち並んでいる。
都心なので護岸は石積み。


 2021/05/24改訂