意外に簡単だった?
山崎川の瀬替
 山崎川は江戸時代の終わり近くまで、今より北の氷室町あたりを西へ流れていた。安政3年(1856)に瀬替(流路の変更)が行われ、今のように流れが変わった。大工事のように感じるが、新田の間には干拓の時に水面が残されていたので意外に簡単な工事だったようである。




 山崎川は紀左衛門新田と道徳前新田の間を流れて海に注いでいたが、流路を今のように南へ遷して安政3年(1856)に川跡を開発して氷室新田が造られた。

 川の流れを変えると聞くと、新たな水路を掘らなければならないので相当な大工事を連想する。しかし山崎川の瀬替は、短距離の水路開削で流れを変えることができた。
 これは江戸時代に新田開発が行なわれたとき、従来からある地域の排水を流したり、海岸へ舟が行き来できるようにするため、水面が残されていたからである。村絵図を見ると海から忠治新田までは幅の広い水面があり、その北の戸部下新田は山崎川近くまで排水路が伸びている。新たに水路を開削しなければならない区間は短く、排水路の拡幅や改修で瀬替が可能であった。


『道徳前新田村絵図』天保12年(1841)
山崎川は道徳前新田の北を流れている


『笠寺村絵図』天保12年(1841)
戸部村や笠寺村から海へ続く水路があり、
これを利用して山崎川の瀬替





 2023/10/19