艀輸送を支えた
中川口艀溜
水上生活者
 名古屋港は沖で本船から艀に貨物を積み替えて運ぶ艀輸送が盛んであった。時間が不規則なため船で暮らす水上生活者が多く、子どもたちを収容する水上児童寮も設けられた。


◇荷役は沖で瀬取
 昔の名古屋港は埠頭が貧弱だったのとトラックが少なかったので、港内の沖に停泊する本船から艀に荷物を積み替えて堀川や中川運河を遡り市内へ運搬していた。

◇不規則な仕事 → 船で生活
 港の仕事は朝が早く、荷役の都合で終業時刻も不規則であり、その日に帰港しない場合もある。
 このため、船で生活する水上生活者もたくさんいた。昭和17年(1942)頃には中川口の艀溜などに2,000世帯もの人が艀で生活しながら輸送に従事していた。この人たちは水面町という町内会をつくり、郵便物も「水面町○○丸」で届いたという。



◇水上児童寮
 問題は子供たちの処遇である。親や親戚に預けられる人は良いが、そうでないと保育や通学ができない。
 このため昭和9年(1934)に築地保育園が開設されたとき夜間託児所が併設され、主に水上生活者の子が収容された。17年(1942)になると水上児童寮が竣工してそこへ入寮するようになったが、戦争が激しくなり19年(1944)に学童疎開が始まった事で閉鎖されている。
 戦後になり昭和20年(1945)10月に港社会館が保育事業を開始し、23年(1948)養護施設若葉寮の分室として再開し、25年(1950)になると再び水上児童寮として独立した。31年(1956)に児童寮に保育園が付設されたが、翌32年(1957)に港保育園に改組されている。




『港区全図』 昭和30年
 荷役の近代化により艀がだんだん減ってゆき、水上生活者も200世帯ほどまで減少したので、昭和41年(1966)5月に水面町は解散された。水上児童寮は42年(1967)に港児童寮に改称され、45年(1970)に閉鎖された。





 2023/11/20