熱田で見つけた共同井戸
 伊勢湾台風の頃まで使われていたという
   
   水が無ければ人は生きられない。かつて井戸は生活の中心であった。
・共同井戸で水汲みや洗物をしながら、おかみさんたちが噂話などをしたのが「井戸端会議」
・水を汲む桶が井戸の底へと一気に落ちていく様子が「つるべ落とし」
・財産を売り尽くし最後に残るのは売り物にならない井戸と塀なので、零落した状態を「井戸塀」
 水道が普及するまでは誰でも実感をもって理解できる言葉だった。

 今では見かけることも少なくなった井戸だが、名古屋台地の北には多くの名水が湧いていた。

    亀尾清水   かねつけ清水など   弘法の井 清柳水
    台地の北は低湿地帯    



名古屋三名水 亀 尾 清 水
    稲置街道の道端に湧いていた「亀尾清水」は、「清清水」(きよしみず)とも呼ばれ、『尾張名陽図会』は名古屋三名水の一つとして挙げている。

 他の二つは大須にある清寿院の「柳下水」と蒲焼町の風呂屋の井戸だが、そのなかでもこの亀尾清水は「特別の清泉」と記されている。絵を描く時にこの水で絵の具を溶くと、金泥などは光り方が良かったとのことだ。

『尾張名陽図会』
   『金鱗九十九之塵』には、「古より名水にして、百日の日照にてもかはく事なし。この水あるゆへに、このほとりの地名を志水と号す」としている。志水は清水のことだ。

 さらに、一名「年魚市水」(あゆちのみず)と呼ばれるとも書かれている。
 『万葉集』に収録されている「小治田の 年魚道の水を 間無くぞ 人は汲むといふ 時じくぞ 人は飲むといふ 汲む人の間なきがごと 飲む人の時じきがこと 吾妹子に わが恋ふらくは やむ時もなし」(詠み人知らず)の水はこの井戸だとしている。
 もっとも、今は「あゆちの水」は瑞穂グランドの東であったとする説が一般的である。
 
   また『尾府全図』には「弘法水」と記されている。
 かつては、各地の湧き水と同様に弘法大師ゆかりの伝説がこの井戸にも伝えられていたのであろう。
 
 井戸は、 名古屋から中山道へと延びる稲置街道が名古屋台地を下る途中にある大曲りの角、街道の道端にあった。場所柄、多くの旅人がこの井戸でのどの渇きをいやし、城下に入る前に汗や埃を拭い、馬にも水を飲ませてもう一踏ん張りしたことであろう。

 名古屋三名水の筆頭とも言えるこの井戸も、いつの頃か姿を消し、今は人通りも少ない坂道が延びているだけとなっている。

「亀尾清水」の名は近くにある七つの尾を持つ亀の縁起が伝わる「亀尾山永正寺、七尾天神」(現:七尾神社)からきている。

『尾府全図』 明治2年(1869)



かねつけ清水 かや清水 いちょう清水
   片山神社は名古屋台地の北端にある。社の北は崖となり急な坂で下ってゆく。東の道が「坊が坂」西は「尼が坂」。

 『尾張名陽図会』には坊が坂の西に3つの井戸が描かれている。「かねつけ清水」「かや清水」「いちょう清水」だ。湧き水がたまった「みたらし池」もある。
 「かや」「いちょう」は近くに生えていた「榧」「銀杏」の木からそう呼ばれるようになったが、この絵が描かれた頃にはすでに無く、名だけが残っていたそうだ。
  
 
 
『尾張名陽図会』
   今の時代では解りにくいのが「かねつけ清水」である。
 「かねつけ」とは「鉄漿付け」と書き、「おはぐろ」をつけること。明治の頃まで既婚の女性などは、お化粧として歯を黒く染めていた。また江戸以前は男性もお歯黒をしていたこともある。
 お歯黒は水に鉄釘や飴や粥などの糖分を入れ数か月以上置いた「鉄漿水」(かねみず)と、漆科の「ぬるで」という植物からとった五倍子粉(ふしこ)を歯に塗って黒く染める。
   では、誰がこの水でお歯黒をつけたのだろうか?
 これについて、上記図会に「鉄漿附志水之古伝」として記されている。
 「かつて神主の家に美少年が居て、この水でお歯黒をつけていた。このことから、かねつけ清水と呼ばれるようになったと伝えられている」。これに続き「これは近世(江戸末期)の事ではない。天正(16世紀後半、戦国時代)の頃、衆道(男色、ホモ)が流行した時のことで、その頃は神社でも小姓として美少年を置いていたのだろう」と、同書の筆者(高力猿猴庵)の意見が書かれている。

 名古屋の街ができる以前の歴史を伝えるここの清水も今は姿を消してしまった。しかし、うっそうと茂る林はいかにも水が湧き出しそうな雰囲気をかもし、都心とは思えない静けさが漂っている。



弘法の井  清柳水
   弘法の井
 井戸や池に、弘法大師が造ったとか、大師が杖をさしたら水が湧き出したとかの由来を伝えるものが各地に残されている。
 名古屋にも大曽根に「弘法の井」と呼ばれる井戸があった。大曾根の下街道が御成道と交差する道端である。

『尾張名陽図会』
   この井戸は大師が祈祷に使ったとの伝説がある井戸だ。
 昔、弘法大師が熱田から今の守山区にある龍泉寺へ参詣する途中、この地で護摩を焚き修法(護摩木を燃して祈る密教の祈祷)をした時、閼伽(あか:仏にささげる水)をこの井戸から汲んだとの伝承だ。

 昭和12年(1937)に刊行された『東大曽根町誌』には「今なお清冷な水が湧出し、傍には弘法井の標柱が建てられている」と記録されている。
 だが『北区誌』(平成6年刊)の古老による座談会では「昭和の初めごろ、弘法井戸は竹の先に桶を結びつければ水がくめるような井戸でした。それが戦争中にポンプ式になり、終戦後、そこがちょうど国道19号の下になってしまい、いまは当時の面影はまったくありません。」と思い出が語られている。

 古老の記憶にも残る井戸だが、今は埋められて道路となり、多くの車がその上を疾走している。

 
淸柳水
 弘法の井のすこし東には「清柳水」と呼ばれる名水が湧いていた。
 『尾張名陽図会』には次のように記されている。
 「清柳水」(きよやなぎのみず)は大曽根口のはずれ、人家の裏庭にあった。名前の由来は分からないが、まことに清い水だ。流れ出る様子は見えないが、土地の人は「どうゆう故かは分からないが水底に一つの花瓶があり、折ふし見えることも見えないこともある」と言う。
 また、この井戸が弘法水であるという一説が伝わっているとも記している。

 また『金鱗九十九之塵』では「昔、2代藩主光友がこの水を飲み、清柳の名を与えた」としている。
 光友は隠居後の元禄8年(1695)から5年ほど大曽根御殿(現:徳川園とその周辺)に住んでいた。このときに井戸の水を飲み、その甘露をめでて清柳の名を与えたのであろうか。
 『東大曽根町誌』では「今は全く不明である」としている。
 多分、明治の頃に姿を消したのであろう。国道19号の下、あるいは沿道のビルの地下に「見えることも見えないこともある」と書かれたまぼろしの花瓶が今も眠っているのかもしれない。
       


名古屋台地の北は 低湿地帯
 なぜ、この地域には名水の井戸や湧水がたくさんあったのだろうか。
 
名古屋台地への浸透水
 名古屋台地は北や西側の低地から約10mの高台になっている。
 今では自動車が通る道が付けられ、家が建ち並び、それらの工事の中で傾斜もゆるくなったが、国道41号の清水口への坂などを注意してみれば相当の高度差があることが理解できる。名水と呼ばれた水はどれも名古屋台地の崖下や途中に湧いていたものだ。
 富士山の雪解け水は三島の柿田川湧水や、山梨県の忍野八海の湧き水となって再び地上に顔を出し、冷涼で清冽な水として知られている。名古屋の名水は名古屋台地に滲み込んだ雨水が、地中に貯えられ、ろ過され、地中のミネラルを溶かし込み、崖の途中や下で湧き出していたものだ。

現在の地形(3~15mで色分け)
(5mメッシュデジタル地図で作製)
 矢田川の浸透水
 また、昔の矢田川はまわりの土地より川底が相当高い天井川であった。川水は地下にしみ込み周辺の地下水位を押し上げ、沿川には田から水が湧く「川田」と呼ばれる土地もあった。
 台地の北一帯は低湿地で、
いたるところで水が湧いていたのである。

 
湧水で沼も
 今の清水二丁目から大杉一丁目にかけて、江戸時代初期には大きな沼があり、蓮がたくさん咲いていた。夏や秋になると遊船が浮かべられ、花火もあげられたという。寛文(1661~73)の頃埋めて蓮池新田になり、稲置街道沿いに家が建ち「池町」と呼ばれた。この池の水源は崖からの豊富な湧水である。100年後の天明年間(1781~89)の地図を見ると、その名残の沼が描かれている。

『天明年間名古屋市中支配分図』1781~89
   御堀の水も 初期は湧水
 名古屋城もそうだ。城は台地の北端に築かれた。しかも一部は沼地にせり出して造られている。加藤清正が、弱い地盤を補強するため柴などをたくさん積み入れ、子どもたちをそこで遊ばせて踏み固められてから石垣を築いたとの伝説があるような土地だ。
 この地が選ばれたのは、一帯に沼地が広がり自然の要害になっているからだ。沼は台地からの湧水が溜まってできていたものである。このあたりのお堀は水堀だが、築城当初は流れ込む川は無かった。自然の湧水で十分満たされていたのである。

 寛文3年(1663)になり、幅下方面の水道建設も兼ねて、庄内川から水を引く御用水が造られ、お堀に川の水が入るようになったのである。
 名古屋遷府から半世紀がたち、台地の上に名古屋の市街が発展した。建ち並ぶ家により地中にしみ込む雨水が減少し、併せて市街の各所にある井戸から汲み上げる水が増え、湧水量が減ったから御用水が造られたのである。前記の蓮池の新田開発も同時期であるが、これも湧水の減少により水位が下がり開発しやすい条件になっていたと考えられる。また、亀尾清水なども初期は自然の清水であったのが、水量の減少により井戸が掘られたのであろう。

 いたるところで湧いていた水だが、稲置街道や下街道、片山神社の近くなど人の目に触れやすい所の湧水には名が付けられ、名水として口づてに伝わり後世にまで名を残したのである。
 



 2006/10/05・2021/02/22改訂