埋め立て進む
『東海道分間延絵図』
熱田海岸
 熱田の前に広がる海は庄内川などから流れてくる土砂がたまりやすく、あちこちで葦が生え陸地化していた。室町時代からこれらを利用して寺や家が建てられていたが、江戸時代になり熱田の役割が大きくなると、広範囲の埋め立てが行われて町が拡張していった。




 江戸時代以前の熱田は、海が今より内陸部に入り込んでいた。

 1530年前後の「熱田社 享禄年中之古図」を見ると、神宮と海は今よりずっと近い距離で描かれている。また、円福寺がかつて「洲崎の毘沙門堂」と呼ばれたのは海岸にあったからである。

◇室町時代から前浜の葦生を利用
 熱田の前浜は一面に海が拡がっていたのではなく、浅い海であちらこちらに葦生が顔を出しているような場所であった。このため江戸時代初期に埋め立てて町づくりが行なわれる以前から葦生の地に土を盛りお堂や屋敷などが造られている。


熱田社 享禄年中之古図 1528~32
『尾張名所図会』
 聖徳寺は戦国時代の永禄7年(1564)に創建されているし、宝勝院は元和9年(1623)に亡くなった智玄和尚が現在地で再興したが、これは町が出来る10年以上前のことである。

 また、「城ノ内」という町名があったが、戦国時代には加藤隼人佐延隆(西加藤の初代)宅があったことから付けられたといわれている。簡単な防護施設を設けた邸宅だったので城と呼ばれたのであろう。西加藤家は3代にわたりこの地に屋敷を構えていたが、西浜御殿が建設されるのに伴い転出している。

 城ノ内には西加藤が屋敷を構える相当以前の永享4年(1432)に仮御殿が建てられている。室町幕府6代将軍の足利義教が富士山を見るため駿河に向かった。その接待のため熱田神宮の大宮司が仮の御殿を建て、義教はここで2泊して連歌の会を開き亀井道場(円福寺)へも参詣したと『名古屋市史』に書かれている。

◇増大する熱田の役割
 江戸時代になり、熱田の北に大きな城下町である名古屋が出来た。
 熱田はその外港としての機能が求められ、城下の住人に魚介類を供給する漁港兼中央市場の役割も担うことになった。

 また宿駅制度が整備され日本一通行の多い東海道の宿場となった。参勤交代制度が設けられてたくさんの大名が定期的に通行し、平和な時代になったので庶民の商用や行楽の旅も増えていった。『東海道 宿村大概帳』によると、天保14年(1843)時点では、248軒の旅籠がある街道で一番大きな宿場になっている。

◇江戸時代初期から町の拡張

 このように熱田の町が担う役割は大きくなり、より広い土地が必要なので海へと伸びていったのである。




『安政以前新訂 熱田図』
町名ゴチックは須賀浦、明朝は大瀬子浦
 『尾張徇行記』には須賀浦(太子町・茶屋町・中町・善福寺町・中築地町)と大瀬子浦(表町・堀端・城ノ内・西ノ筋・摂待町)は、昔は海だったが寛永10年(1633)と承応3年(1654)に埋め立てて町屋が建ち並ぶようになったと記録されている。

 熱田の前浜は土砂が溜まりやすく、すでに室町時代から芦生になった場所を造成して部分的に利用がなされていた。江戸時代初期の埋め立ては、あちらこちらに孤立して建っているお堂や屋敷の間を埋めて一体の陸地にし、さらに拡大したのであろう。




 2023/02/03