母の嘆き
裁断橋の擬宝珠

 姥堂にはかつて脇を流れていた精進川に架かる裁断橋が復元されている。
 擬宝珠に、小田原の役に出陣して亡くなった我が子(堀尾金助)を思う母の気持ちが綴られた名文が刻まれていることで有名である。


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姥堂に裁断橋復元

 裁断橋は姥堂の脇を流れていた精進川に架けられていた東海道が通る橋である。
 精進川は新堀川に姿を変え、姥堂横の流れはその後も姥子川として残っていた。しかし大正15年(1926)に埋め立てられて橋はなくなったが、縮小した橋が姥堂境内に再現され擬宝珠のレプリカが付けられている。なお、本来の擬宝珠は市博物館が保存している。


明治22年測図 1/50000


大正9年 1/25000




亡き息子への思い 裁断橋の擬宝珠
◇名文として知られる 擬宝珠の文字
 擬宝珠に刻まれた架橋の由来は、名文として知られている。

 「てんしやう十八ねん二月十八日に、をたはらへの御ちん、ほりをきん助と申、十八になりたる子をたゝせてより、又ふためとも見さるかなしさのあまりに、いまこのはしをかける成、はゝの身にはらくるいともなり、そくしんしやうふつし給へ、いつかんせいしゆんと、後のよの又のちまて、此かきつけを見る人は念仏申給へや、卅三年のくやう也」



 天正18年(1590)に秀吉が小田原征伐を行った。
 その時に18才だった堀尾金助も出征したが死亡し帰ってこなかった。わが子を亡くした母が三十三回忌(元和8年、1622)を迎えるにあたり息子の成仏を願ってこの橋の架け替えをしたのである。文中の「いつかんせいしゆん」(逸岩世俊)は金助の法名である。

◇堀尾氏は松江藩の創始者
 堀尾氏は戦国時代、現在の大口町を根拠地とする豪族であった。
 金助は堀尾吉晴の子、あるいは従兄弟とも言われるが確かなことは解らない。小田原に出陣して亡くなったが、資料により戦死・病死と分かれている。
 堀尾吉晴の息子忠氏は、後に出雲・隠岐の24万石を領有する松江藩の初代藩主となったが若くして亡くなった。孫の忠晴が5才で跡を継いだので、隠居していた吉晴が松江城築城など藩政の基礎を築いている。なお、忠晴が寛永10年(1633)に亡くなると、子がなかったので無嗣改易となり、松江藩は京極家、その後は松平家が統治している。

 なお、京都の妙心寺塔頭の春光院は、堀尾吉晴が金助の菩提を弔うため金助が亡くなった天正18年(1590)に創建した寺である。当初は金助の法名から俊巖院の寺号であったが、堀尾家が断絶した後、親戚関係の伊勢亀山藩石川家が引き継ぎ春光院に改号したという。




名前さまざま 裁断橋
◇裁断橋とは?
 裁断橋は「熱田社享禄年中之古図」(1528~32) にも描かれ、金助の母が架け替える以前からあった。
 規模は資料により多少異なるが『東海道 宿村大概帳』では高欄付の板橋で、長さが12間(21.8m)、幅が3間(5.5m)、橋脚は3本立4組となっている。

 何度も架け替えられているが、寛文9年(1669)に架け替え、享保7年(1722)に台風で破壊修復、明治14年(1881)に台風で流失し架け替えの記録が残されている。『名古屋市史』(大正時代発行)では「石礎木製」に変わっているが、現在の姥堂には橋の桁石と称するものが保存されているので、事実なら「木石混用橋」ということになる。

◇橋の名は?
 橋の名は様々で、裁談橋・讃談橋・齊淡橋・三淡橋などと書き、俗に御姥子(おんばこ)橋・サンダガ橋と呼ばれた。

 橋の名の由来については諸説ある。
・大宮司が住民からの訴えをここで裁断した
・昔、ここに裁断所があって、政務を行っていた
・姥堂があるので三途(さんず)橋だったが、訛って「さんだ」「さいだん」になった。精進川も元は「三途川」だったのが「しょうず川」「精進川」になった。
・永禄(1558~70)の頃、幸順僧都が歩いて川を渡ろうとして溺死したので僧都川、そこから、さうずが橋、転じてさんだとなった
・弘法大師がここで讃檀をしたから
・戸田村西照寺の僧淳誓は、還俗して小田原に出陣し、金助の遺品を持ち帰りその母に渡した。再び僧に戻った淳誓が、橋ができたときに人々に仏法を讃嘆し橋の由来を説明したので「讃嘆橋」となった
・昔、神官が不都合なことをしたとき、ここで裁談して東方へ追放したから


「熱田社享禄年中之古図」
(1528~32)
『尾張名所図会』

『尾張名所図会』

『明治の名古屋』






 2022/07/07