大きな建造物を好んだ
山 田 才 吉
 山田才吉は明治から昭和初期にかけて活躍した実業家兼政治家である。料理人としてスタートし、守口漬を考案して評判を呼び、東陽館・南陽館・北陽館・聚楽園といった大規模な建物の料亭を経営した。また東海市には今も残る聚楽園大仏を建てている。五号地では建設途中から路面電車の敷設や水族館の建設など手広く事業を展開していった。東邦ガスの前身である名古屋瓦斯の設立にも尽力し、県会議員も務めるなど多様な活躍をした人物である。





 山田才吉は、嘉永5年(1852)に現在の岐阜市で料理屋の長男として誕生した。板前として修業して名古屋などで店を構え、明治から大正にかけて名古屋で実業家・政治家として活躍した人物である。

◇守口漬と缶詰
 明治15年(1882)頃に漬物を味醂粕漬に改良して守口漬等を考案し、本町通の若宮神社前で「喜多福」の店を開き評判となった。
 明治21年(1888)刊の『尾陽商工便覧』を見ると、漬物製造と共に各国食料品洋酒卸売・諸国名産取次所・毛糸あみもの製造所と書かれており、手広い商売をしていたようである。


 『尾陽商工便覧』
 17年(1884)には海藻・魚貝類の缶詰製造を始めており、これが県下で最初の缶詰製造である。35年(1902)には日本缶詰(資)を設立して豊浜の工場で製造を始め、後に株式会社に組織を変え日露戦争では大量の缶詰を軍に納入している。

◇ガス事業
 明治29年(1896)になると滝信四郎(現在のタキヒョウの経営者)など13名で愛知瓦斯(株)を設立したが、日清戦争後の不況で事業開始に至らなかった。日露戦争後の39年(1906)になって再び事業開始をもくろんだが他にも事業会社設立の動きがあり、合同して名古屋瓦斯(株)(現:東邦ガス)を新設して才吉は取締役に就任し、翌40年(1907)からガスの供給を始めている。

◇東陽館
 明治30年(1897)に名古屋を代表する大規模な料亭・貸席の東陽館が開業した。(株)東陽館が経営し、才吉は専務を勤めている。
 32年(1899)に中京新報が旅館・料理屋の人気投票を行ったが、東陽館は料理屋部門で1位となった。36年(1903)に火災で大部分を焼失したが、その後は才吉が譲り受けて経営するようになった。



『名古屋市中央部営業案内地図』
明治42年



『名古屋東陽館図』 明治32年

 
◇県会議員
 明治32年(1899)に県会議員に立候補して当選、その後は政界でも活躍し県会の市部会で議長も務めている。

◇五号地の開発
 明治42年(1909)から、建設が進む五号地で活発に事業を展開し始めた。
 この年、才吉が経営する日本缶詰は五号地に養魚場を建設しボラなどの飼養を始めた。
 翌43年(1910)4月には才吉が発起人の熱田電気軌道(株)の特許(路線敷設の許可)を得ている。同じ4月に才吉は名古屋教育水族館を開園しているが、路面電車はまだできてなく新堀川の記念橋から船で客を運んだ。3か月後に神戸橋西から東築地(水族館前)まで電車が走るようになり集客の便が良くなっている。
 また同じ頃に巨大な南陽館の建築を行い大正元年(1912)の台風で倒壊して大正9年(1920)に再建し開業している。
 ちなみに五号地は明治43年(1910)12月に1期工事95,000坪余が完成し、全体の250,000万坪が完成したのは大正3年(1914)3月である。才吉の事業は五号地の築造と同時進行で行なわれていたのである。

◇聚楽園と大仏
 大正5年(1916)になると現在の東海市に聚楽園を開いている。伊勢にあった大旅館を移築した料理旅館で、昭和2年(1927)にコンクリート製で高さが18.79mある聚楽園大仏が建てられている。

◇北陽館
 昭和元年(1926)には現在の可児市に料理旅館の北陽館を開業している。木曽川のライン下りと併せて地域の観光開発を図るのを目指していたようである。

 才吉は大きな足跡を残して昭和12年(1937)に死去した。
 才吉が建造した南陽館など巨大建物は、今では全て姿を消し、唯一聚楽園の大仏が残されている。
 また、事業の出発点となった守口漬などの漬物は、存命中に暖簾分けした喜多福総本家が引き続き製造し納屋橋東の広小路南側の店で味を伝えていた。20数年前に広小路の店を廃止して中村区内で工場と店舗を構えていたが、令和3年(2021)8月に廃業している。




 2023/10/18