多くの人で賑わう名城公園の西口 中土戸橋を出ると、住宅と事業所が混在するどこにでも有るような街並みがひろがる。
 名城公園は、かつて名古屋城の一部「御深井の庭」であったことは知られているが、堀川(黒川)を渡ったこの地区も、最初は御深井の庭の一部であり、後には矢来で囲み、中に御側組の鉄砲組・弓組などが住んだ「出丸」(本城から張り出して築いた砦)であった所である。

    「御深井御山之内」とは   矢来・門番・弓組・鉄砲組



「御深井御山之内」とは
   堀川に架かる中土戸橋から西にかけた一帯は、名古屋城にとり非常に重要な場所であった。

 
御側組の屋敷
 深井の庭の一画は「御深井御山之内」とか「御山之内」と呼ばれ、御側組御足軽役屋敷になっていた。家臣の配置は、重臣は三の丸などの城内に屋敷を与えられ、小身のものは城から離れた場所になる。御深井の庭に足軽屋敷がおかれたのは、ただの足軽ではなく「御側組」という特別な位置づけだったからであろう。

 『武家命令究事』によると、江戸時代初期には「御手木(てこ)之者」と呼ばれ、22人が御深井の庭の一角に住んでいた。寛文2年(1662)には、庭の維持管理や近くで火災が起きた時の対処など色々な仕事があるので18人増員して40人になり、20人1組の2組体制となって、職名も「御庭御足軽」に変わっている〔『御日記頭書』では延宝2年(1674)に改称〕。

 天明4年(1784)に大幸川が御山之内の東を掘り割って堀川につながれたことで、中土戸橋の西に位置することになった。

 
名称の由来
 「御山之内」とは、変わった名である。山でもない平地に「御山」という名がついていたのだ。『金城温古録』に、御深井の庭の北部は「皆、平山の松林なりしかば、是を松山と号せられる。俗には御山と称ふ。後、其御山、西北の端を欠て、御側組御足軽役屋敷に成し下さる。故に其の旧称を伝えて、御深井御山の内と名付けたり」と記されている。
 今は、堀川(黒川)により名城公園と分断され別の地域と感じられるが、かっては地続きで御深井の庭として一体の土地であった旧称が引き継がれたわけである。



矢来・門番・弓組・鉄砲組
   
御山之内と周辺の図





御山之内の住宅図

『金城温古録』
 厳重な警備
 『金城温古録』に収録されている江戸末期の御山之内の様子を見ると、厳重な警備がなされている特殊な場所であった。
 御深井の庭に面した東側を除き、北・西・南はすべて矢来(竹や木で作られた柵)で囲まれている。入り口は4か所。北と西は各1か所で南が2か所だ。木戸が設けられ門番がいる。門の外には制札が建っている。御深井の庭に近い北と南の2か所は「御用の無い者は一切入るべからず」と書かれている。「御用」とは「御」がついているので藩の公用を指しており、一般の人は入れない門だ。西と南の2か所は「勧進や乞食などは入るべからず」と書かれ、矢来の中に用のある人はここから出入りしていた。
 中に入ると中土戸橋から西へ伸びる御山前之川筋が多少曲がりながらも、幅が広く地区のメインストリートになっている。今も中土戸橋から武島天神社へと伸びる道が曲がっているのは、この江戸時代の名残りを残しているのである。矢来に囲まれたこの地区内のすべての道は、見通されないようにT字路になり「御山七曲り筋」という屈曲した道もあった。

 
60人近い部隊が駐屯
 江戸時代の終わり頃、この厳重な警戒の中に住んでいたのは「御側物頭同心」の「弓組」が1組、「鉄砲組」が2組の計3組だ。そもそも御側組は4組しかない。そのうち3組までがここに配置されていたのである。残る1組(鉄砲組)は御深井の庭の東側に配置されていた。「御土居下同心」と呼ばれたのがそれである。御深井の庭の東西に御側組が配置されていた。
 1組の人数は19人(記録によっては20人)。ここには60人近い部隊が駐屯していたのである。地区内には矢場が2か所あり、武術の訓練も行われていたが、御深井の庭の土運び・枝打ち・草刈りなどの管理も行い、俗に「御庭組」とも呼ばれていた。
   奥向きの下級藩士も
 「弓組」「鉄砲組」のほか、「御小納戸下役」「奥坊主」「奥陸尺」(人夫のこと)「御庭御中間」も住んでいた。いずれも身分は低いが藩主の奥向きの仕事に従事していたようだ。
 『金鱗九十九之塵』には奥坊主の山田寿悦が特技の放屁を藩主の面前で披露した話が載っている。九代藩主の宗睦(むねちか)の命により、寿悦は口笛を吹いて神楽を演奏しながら、それに合わせて屁を太鼓として挿入したところ、お殿様は非常に笑い楽しまれたとのことだ。なお、屁にはその音色により絹糸・碇綱・蛙の筒入・九つ桟子・鴬などの名が付いていたとのことである。

 庭の東に配置された「御土居下同心」については、門の警備などの通常任務のほか、落城のときには藩主を土居下から大曽根を経て木曽方面へ脱出させるという、秘密の重い任務を担っていたとされている。この御山之内に配置された同心たちも秘密の任務を持っていたのであろうか。秘密であれば口外・記録されることもなく、今となっては知るすべもないのが残念である。

 
西北の出丸
 『金城温古録』は御山之内について「これ、御庭曲輪の為に西北の出丸〔本城から張り出して築いた砦〕にて、その矢来の門は、御庭曲輪中土戸の為に、皆二ノ木戸の御締りとなれる所なり」と記している。
 また『金鱗九十九之塵』は「此地は御構の内」と書き、城の一部としている。
 今は「城西五丁目」と呼ばれるこの地は、御深井の庭の前衛として設けられた砦だったのである。
     【参考】 『金城温古録』 『名古屋城三之丸・御土居下考説』 ほか


 2005/05/24・2021/01/31改訂