南の遊郭
八 幡 園
 尾頭橋から少し西へ佐屋街道を行くと、かつては南の遊郭と呼ばれた八幡園があり賑わっていた。



◇佐屋街道の立場から発展?
 江戸時代、佐屋街道の立場(休憩所)があり、八幡園(やわたえん)はそれから発展したとも言われるが、『佐屋街道分間延絵図』にはこの場所に立場の記載はなく、烏森(現:中村区)が立場になっており、古渡村の絵図でも田しか記載されていないので正規の立場ではなかったようだ。

◇228人の芸妓
 昭和12年(1937)刊行の『歓楽の名古屋』には「八幡共立連」と「八幡連」の2つの芸妓連があり、41軒の置屋に228人の芸妓がいると記録している。
 八幡共立連について
 「市の西南部、西古渡の新興地一帯から、尾頭にかけて活躍する連妓、1時間1円で酒つき歸りの自動車もといふ料理屋の勉強振りをみてもその獅子奮迅のさまが想像されるでせう。」
   と書いてあり、安さが売り物だった。

 『愛知県史』には次のように書かれている。
 [もともとは八幡連という芸妓の町であったが、ある話者によれば「どちらかというと低級」であったとされ、「不見転」(みずてん)と称して身を売る者が多くいたという。八幡の芸妓は俗に「金魚」と呼ばれていた。ある話者によれぱ、八幡園は戦前から「寝ることもできた」場所であったといい、「流行していて先輩に連れていってもらった。上手に行くと一本飲んで遊んで寝てこれる。酒1本つけて、1円10銭くらいで遊べた」とされ、中村遊廓に比べれば割安であった。…(中略)…
 「今日は遊びに行こう」と誰かが言い出し、「西か北か南か」という話になれば、西は中村(名楽園)、北は城東園、南は八幡園を意味した。]



『大名古屋市』 昭和15年
八幡料芸四業組合・天龍閣・料亭熱海
・料亭冨士・割烹清閣の文字




 2021/07/17