武士が盗み食いし 60余人の農民を斬殺
中野村騒動
 武士は映画やドラマで立派な人として扱われることが多いが、本来は戦場で人を殺すことを生業としていた人たちだ。江戸時代の初期の武士は殺伐とした気風があり、中野村(現:中川区元中野町ほか)で住民を虐殺した記録が残っている。




 江戸時代初期に武士と中野村村民が喧嘩になり、多くの村人が殺された話が『金鱗九十九之塵』に載っている。

◇武士が真桑瓜を盗み食いし池で釣り、怒った農民と喧嘩
 大坂夏の陣が終わり、日本は平和な時代に変わった。その6年後の元和7年(1621)6月28日、安藤四郎右衛門始め8人の武士(いずれも100石以上の上級武士)が、熱田新田へ魚釣りに行き、夕方帰宅しようと中野村を通りがかった。
 武士たちは畑の真桑瓜(まくわうり)を盗み食いし、池で釣りを始めたので村人と言い合いになった。怒った数10人の村人が棒を持って出てきて大騒ぎになったが、長老たちが引き分けて武士たちを帰宅させた。
 この結果、8人の武士は改易(お役御免)になり、農民は3人が斬罪になって一旦終わった。

 ※農民は「棒の手」を使用?
 農民は棒を持って集まり武士と対抗したと書かれている。
 これは単に棒きれを持って集まったのではなく、この地方で農民武術として普及していた「棒の手」を使って武士と対抗したと考えられる。

◇武士はお礼参り……村人60余人を斬殺
 その半年後の12月28日の夜、改易された武士が応援の浪人も含めて40~50人で村を襲撃した。村の出入り口を固めて60余人を斬り殺し多くの怪我人がでた。
 一説ではその後、翌年の1月6日に藩が武士の親類などに当人を出頭させるように命じ、6人が出頭し切腹させられ、2人は行方をくらませた。また、襲撃に加担した武士4人が判明して改易させられたという。
 現代の暴力団も顔負けの、倫理観も何もない傍若無人の振る舞いである。

 中野村絵図には「字 けんか池」がある。この騒動があったから付けられた名であろう。
 なお「熱田新田へ釣り」となっているが、新田は正保4年(1647)の完成なので後に新田となったところという意味である。


「中野村絵図」
◇本来の武士……殺戮を仕事とする荒くれ男たち
 武士というと、今では「花は桜木 人は武士」「武士に二言はない」など、優れた人のようにもてはやされる。しかし、本来は戦場で人を殺すことを職業とする荒くれ男たちである。

 平和な時代になっても初期の頃は、日々殺戮を繰り返してきた武士たちの気質はそのまま残り、このような事件を引き起こした。
 荒々しい気質を時代に合うように改めさせる教育が行われ、世代交代をするなかで、徐々に武士たちは穏やかになり、武士階級が権力を握っていたこともあって武士を賞賛する気風が根付いたのである。

◇以前にも同様の事件
 『尾陽戯場事始』に、清正家来の足軽が役者を斬り殺したことが書かれている。

 名古屋築城工事で多くの人が集まったので、それを当て込んで与次兵衛という人が興行主となり、熱田郊外で小屋掛けして歌舞伎の興行を行っていた。そこを加藤清正の家来である足軽が、外囲いの筵の隙間からのぞき見していたのでとがめたところ、舞台に乱入して狂言師1人と女役者2人を斬り殺し、興行主にもけがをさせて逃げた。
 与次兵衛が清正に訴えたところ、清正は賠償したとのことである。


「尾陽戯場事始』





 2024/02/14