わずか7年
葛町遊廓見世附 享保19年
 『名古屋史要』掲載
宗春時代の三遊郭
 よく話題になる宗春の規制緩和政策……その代表的な政策が遊郭の公許だ。しかしわずか7年で姿を消してしまい、300年近い年月がたった現在では何の面影も残っていない。話題になる割には知られていない姿を、昔の絵などから思い浮かべてみよう。


    宗春 三遊郭を許可   足かけ7年で姿を消す



宗春 三遊郭を許可
 名古屋の遊廓は、築城時に飛騨屋町(現:錦通本町の東)で許可されたが、程なくして禁止されそれ以降は公許の施設はなかった。

 享保15年(1730)に宗春が7代藩主になると『温知政要』を著した。人々を慈しみ規制を緩和し、地域を活性化させるのが宗春の考えで、翌16年には、西小路・富士見原・葛(かずら)町に遊廓を開くのを許可した。

◇西小路遊廓
 享保16年(1731)末に建築が始まり、翌17年(1732)正月には遊女が来て営業が始まった。建物は皆立派で、とりわけ山形屋は2階へ上がる階段の巾が5~6間(9.1~10.9m)もあり、10挺や20挺の駕籠なら客は駕籠に乗ったまま道路を行くように階段を上り2階の座敷へ横付けできた。他の茶屋(妓楼)でも階段巾は2~3間(3.6~5.4m)あった。

 28軒の茶屋があり、1軒に多いところは18~9人、少ない所は3~4人、全体では244人の遊女がいた。四季さまざまな催しがあり、盆中(旧暦の7月中旬)から8月1日まで行われる遊女の踊りは人気があった。

◇富士見原遊廓
 享保17年(1732)6月に開業した。色々な風俗や顔つきの人が押し寄せ、人を押し分けられないほどの賑わいであった。
 34軒の茶屋があり、1軒に多いところは15人、少ない所は2人、全体で190人の遊女がいた。

◇葛町遊廓
 享保17年(1732)10月中旬から営業が始まった。
 43軒の茶屋があり、232人の遊女がいた。


 これら遊女の多くは、京都・大阪・伊勢地方から来た人であった。また、西小路と葛町には芝居小屋もあった。
 公許の遊廓は3か所だが、それ以外に門前町や橘町、東本願寺周辺・本重町(現:錦一丁目)など各地に小規模な遊女屋や陰間茶屋が営業し「士農工商を問はず、遊女と手を携へて晝夜の別なく小唄諷うて騷ぎ歩行くに至り」という状態になった。

 その頃の川柳にこんなのがある。
   西小路富士見にたわけ花咲て 絞細工の小鳥一群
   時行かす掛行燈に殘る月 武藝はきらひ只おとり好  (享保尾事)


『享元絵巻』
 
 
葛町遊郭
 
西小路遊郭
 
富士見原遊郭
 



足かけ7年で姿を消す
◇風紀問題で禁止
 繁栄する地域となったが風紀を乱すと言うことから、元文元年(1736)三廓から遊廓の退去が命じられた。そのさなか西小路では4月18日に火災が発生し大部分が焼けてしまい、茶屋はすぐ他所へ引っ越した。葛町と富士見原の茶屋も次第に日置や門前町など他所へ移転していった。

 移転先で引き続き営業を行っていたが、元文3年(1738)になると遊女を置くことが全面的に禁止となり、三遊郭内に残っていた建物は全部取り壊しとなった。三遊廓は、足かけ7年の短い期間で姿を消したのである。これにより名古屋には公許の遊女はいなくなったのである。
 そして、翌4年(1739)に宗春は幕府に蟄居を命じられた。

◇60年後 馬琴が見た名古屋
 それから60年余経った享和2年(1802)6月、曲亭馬琴が名古屋を訪れた。『羈旅漫録』に名古屋の様子を次のように書いている。
 「凡(すべて)劇場の外、三絃停止なり。見世物なども太鼓のみなり。凡酒楼中客二階にあれば、男子出て酌をとる。女子は二階へ上らず。国禁の甚しきことこれにてしるべし。名古屋にて針妙と称するもの、三州あたりの衒妻(げんさい)に同じ。これも今は稀なり。」
 取締が厳しく、誤解を避けるため女性は2階座敷でのお酌はしないので、男性がお酌をしている。非公認の娼婦も少ない。宗春の時代とは大変な違いである。




 2021/09/03