キリシタンの悲哀
堀川の長屋

 幕末、長崎に造られた大浦天主堂の神父に、隠れキリシタンが信仰を告白したことはよく知られている。この信徒たちの一部は名古屋へ流罪となって苦難の日々を送り、一時期は彼らが「堀川の長屋」と呼んだ施設で暮らしていた。


    浦上四番崩れ   キリシタン375人 名古屋へ   改宗者 堀川の長屋へ



浦上四番崩れ
 明治4年(1871)、長崎訛りの言葉を話し、疲れ果てみすぼらしい姿の人を納屋橋付近で見かけるようになった。名古屋へ流配された浦上キリシタンたちだ。

 江戸時代、キリスト教は徹底的に弾圧されてきた。開国により、幕府は外国人居留地での外国人の信仰と宣教師の来日は許したものの、日本人の信仰は依然として禁止していた。
 そのようななか、元治2年(1865)に長崎郊外浦上村(現:長崎市)の住民が大浦天主堂の神父に信仰を告白、慶応4年(1868)に中心となっていた信徒114名が逮捕された。「浦上四番崩れ」の始まりである。

 諸外国の激しい抗議のなか明治政府に問題が引き継がれた。3月15日、新政府は太政官名で五榜の掲示を出し、幕府同様キリスト教弾圧の方針をとることにした。


大浦天主堂




キリシタン375人 名古屋へ
 慶応4年(1868)4月25日、大阪で開かれた御前会議で浦上村の隠れキリシタン全員の流刑が決まった。
 この年と翌明治2年の2回に分け、3,000余人の信徒は21の藩に流配された。

 名古屋へは明治2年(1869)12月に、腰縄で数珠つなぎにされて第一陣が連れてこられ、広小路の牢に入れられた。翌3年2月までに男女合わせて375人が名古屋へ流配されたが、1才にもならない赤子・妊婦・70才を超える老人までおり、金沢に次いで多い人数だ。牢だけでは収容できず、西本坊(西本願寺)・七ツ寺など5か所に収容された。

 この時代、一般の人々は吉利支丹は邪宗を信じる怖い者、空を飛んだりする魔術を使う者と思われていた。
 白洲に引き出し、改宗をしない者は竹で50回も滅多打ちにしたり、雁木牢と呼ばれる丈も巾も3尺(90㎝)で、尖った角材が突きだし、中腰を続けなければならない檻に入れたりした。
 すさまじい拷問と、ほんのわずかしか支給されない食糧、はやる熱病のなか、名古屋に流配された信徒は一時期には全員が表面上では改宗を承諾したという。




改宗者 堀川の長屋へ
 明治4年(1871)から、改宗した者は今の天王崎橋下流にあった旧御普請方役所の構内に造られた施設に移された。信徒たちはここを「堀川の長屋」と呼んでいた。
 待遇も改善され、外出したり働きに行ったりすることが許されるようになった。堀川岸に咲き誇る桜や川面を行き交う多くの舟を、信徒たちはどんな思いで眺めていたのだろうか。
 翌5年(1872)7月に故郷に送り返されることになり、1年余りを過ごした堀川の長屋を出て行った。その後は、非改宗者がこの長屋へ送り込まれた。

 明治6年(1873)3月に、新政府は信徒を全員釈放した。
 4年にも及んだ異郷での生き地獄から解放されて故郷の浦上村に帰って行ったが、75人は名古屋で亡くなっていた。260年も続いた禁教の年月を堪え忍び、多くの尊い命と引き替えに、やっと信仰の自由を手にしたのである。



参考資料:『和歌山・名古屋に流された浦上キリシタン』

 2022.01.21