田園から市街地へ
日 置 村
 日置村は大須など南の寺町の南に位置していた。開府当時は田園地帯だったが、名古屋と熱田を結ぶ幹線道路が通り城下から比較的近いので、割と早い時期に城下と町続きの村に変わっていった。


    開府当時 田園地帯   町続き 戸数人口2.5倍に



開府当時 田園地帯
◇開府当初の市街 広小路以北
 開府の頃の城下町は堀切筋(後の広小路)までであった。
 その南は松原が広がる原野、その南に大須観音などがある南の寺町が造られ、日置村は寺町の南に位置していた。村の中央に堀川が造られ、川岸は藩の重臣たちの下屋敷(別荘)となったが、村はまだ田園地帯であった。

 江戸時代初期の寛文(1661~73)頃は、242戸で1,238人が暮らしていた。
 堀川より東は水害の心配がない名古屋台地なので、農家の住居や神社・仏閣は東に集中し、主に畑作が行われていた。西側は水の豊かな低湿地なので、田が広がり、その中に畑が散在しているという景色であった。

◇徐々に町家が増加
 村の東を、名古屋と熱田を結ぶ熱田道(本町通、美濃街道)が通っていた。熱田道沿いの地域は交通の便が良いため、名古屋の発展と共に早くから市街地へ変わっていった。
 寛永(1624~44)初期には、今の広小路本町の南地域が市街地になり、寛文4年(1664)には松原に有った刑場を土器野(清洲)へ移して跡地を開発し橘町が造られた。

 市街化の波は日置村にも及び、宝永6年(1709)に写された地図を見ると、熱田道沿いはむろんのこと、日置橋から東へ延びる道も熱田道まで両側が町屋になっている。しかし、この頃はまだ畑が広がり農家が多い状態であった。


『尾府名古屋図』 宝永6年写し



町続き 戸数・人口2.5倍に
 その後も次々と市街地に変わり、城下の「町続き」の町になった。享保13年(1728)に「町続き」の地区は町奉行の支配下になり、年貢の徴収などが大代官の管轄であった。

 1800年前後に編纂された『名古屋府城志』によると、日置村は646戸で人口は3,182人となっており、戸数・人口共に江戸時代初期の2.5倍以上に増えている。
 町屋の増加で農家は狭くなり、秋に収穫した籾を干す場所にも困るため、願い出て文化7年(1810)に堀川西の字中田へ13戸が移転している。

 江戸時代末期の天保12年(1841)に描かれた村絵図を見ると、堀川東側の村内の道路は両側がすべて町屋で、畑は南寄りに少し残るだけとなっている。また堀川西には東側地区から移転した13軒の家が描かれている。

 江戸時代のほとんどの村は人口が変わらず、このように増加しているのは街道沿いなどごく限られたところだけである。

『日置村絵図』 天保12年




 2021/09/03