都々逸・熱田の遊女 発祥之地
築出の鶏飯店

 男女の機微を唄う都々逸は、築出の東外れにできた鶏飯店の下女であるお仲が宴会で唄ったのが始まりと言われている。神戸節と呼ばれていたが、江戸に伝わり寄席で演ぜられ、囃子詞から都々逸と呼び名が変わり全国に普及した。


    鶏飯店 誕生   下女のお仲が都々逸を



鶏飯店 誕生
 寛政12年(1800)の秋、熱田宿の「築出」東外れに大きな茶店が出来た。

 「鶏飯店」と呼ばれたが、店の名物は鶏飯ではなく、蜆汁を肴に酒を飲み女性が接待する事であった。
 鶏飯店と呼ばれたのは、店の経営者は以前に名古屋で鶏飯店を開いていたからだ。そこで出された鶏飯は鶏肉の炊き込み御飯ではなく、唐の黍(トウモロコシ又はモロコシ=コーリャン)を入れたご飯だった。
 店の名物である蜆汁は、堀川や精進川で採れた蜆を使っていたことだろう。『張州雑志』には「蜆は堀川に多い。妙安寺(沢の観音、住吉橋下流)付近の物は大きくておいしい。……姥堂川(精進川)の蜆は、甚だ大きく味も良いが、採れる量は少ない」と書かれている。

 この茶店は裏に大きな庭があり、築山や池が設けられ『殿々奴(どどいつ)節根元集』に「春の花、秋の月、四季の詠め浅からず」と書かれ、風趣に富んだ場所だった。庭には床几が置かれ、そこでも飲食ができた。「座敷へ上がれば余程物が入る事なれど、彼の床台に休みても、庭の物好なるさまをながむるたのしみは同じければ」ということで繁盛した。

 鶏飯店が賑わうのを見て、新たな店も開かれ「新長屋」と呼ばれていた。


『殿々奴節根元集』


『殿々奴節根元集』




下女のお仲が都々逸を
◇下女は「おかめ」で娼妓も兼業
 この店の下女は「おかめ」と呼ばれ、店は「おかめ茶屋」とも呼ばれていた。おかめは娼妓もしており、ここが熱田での娼妓(飯盛女)の始まりなので、熱田では娼妓のことを「おかめ」と呼ぶようになった。
 その頃の俗謡に
  「宮の傳馬町に新長屋が出来て、生きた阿龜(おかめ)が袖を引く」というのがある。

◇お仲が都々逸
 鶏飯店に「お仲」という下女がいた。須賀町のたばこ屋の娘で、お仲が都々逸を歌い始めたと言われている。

 あるとき大きな宴会で、「おかめ買奴(かうやつ) 天窓(あたま)でしれる 油つけずの二ッ折」と唄い、それに「其奴(そいつ)ハ殿奴者(どいつじゃ)殿奴者」と囃したのが面白かったので、この唄を唄うときは必ずこの囃子詞(はやしことば)が使われるようになった。
 囃子詞はその後、「殿奴者(どいつじゃ)殿奴者」から「どどいつ どいどい」になり、その返しで「浮世はさくさく」と囃すように変わっていった。また、即興で様々な囃子詞が唄われることもあった。

 お仲は後に神戸町の鯛屋の女将になった。鶏飯店に居た頃は痩せてすんなりした姿だったが、この頃は非常に太っていたという。
 お仲は天保8年(1837)に小牧で貫道和尚(詳細不明)を戒師にして剃髪して寿貞に改名し、あらかじめ用意した袈裟を身につけて帰宅した。家人達は突然のことに肝を潰したという。その後は、盛んに神社仏閣への奉納をして、嘉永3年(1850)に亡くなった。

◇江戸で寄席芸に
 この唄は「神戸節」、江戸では「名古屋節」とも呼ばれ、天保9年(1838)に江戸で都々逸坊扇歌(せんか)が寄席で演ずるようになり、客が出した題を即興で都々逸にして唄い人気を博した。
 七・七・七・五調の26文字を基本とし、短い言葉に思いを込める大衆芸能は長く人気を保ち、扇歌の芸名は代々引き継がれ、昭和27年(1952)に7代目扇歌が襲名したが、現在は空席になっている。

 鶏飯店やその付近に出来た新長屋の店は、一時は繁盛したが長くは続かず衰退していった。
 姥堂には昭和38年(1963)に「都々逸発祥之地」碑が建てられている。

姥堂境内




 2023/07/09