|
寛政12年(1800)の秋、熱田宿の「築出」東外れに大きな茶店が出来た。
「鶏飯店」と呼ばれたが、店の名物は鶏飯ではなく、蜆汁を肴に酒を飲み女性が接待する事であった。
鶏飯店と呼ばれたのは、店の経営者は以前に名古屋で鶏飯店を開いていたからだ。そこで出された鶏飯は鶏肉の炊き込み御飯ではなく、唐の黍(トウモロコシ又はモロコシ=コーリャン)を入れたご飯だった。
店の名物である蜆汁は、堀川や精進川で採れた蜆を使っていたことだろう。『張州雑志』には「蜆は堀川に多い。妙安寺(沢の観音、住吉橋下流)付近の物は大きくておいしい。……姥堂川(精進川)の蜆は、甚だ大きく味も良いが、採れる量は少ない」と書かれている。
この茶店は裏に大きな庭があり、築山や池が設けられ『殿々奴(どどいつ)節根元集』に「春の花、秋の月、四季の詠め浅からず」と書かれ、風趣に富んだ場所だった。庭には床几が置かれ、そこでも飲食ができた。「座敷へ上がれば余程物が入る事なれど、彼の床台に休みても、庭の物好なるさまをながむるたのしみは同じければ」ということで繁盛した。
鶏飯店が賑わうのを見て、新たな店も開かれ「新長屋」と呼ばれていた。
|