戦災復興資金の捻出
『名古屋市港区誌』

名古屋(土古)競馬場
 名古屋人にとりなじみ深いのが名古屋競馬場。土古山新田にあったので土古競馬場とも呼ばれ、永い間親しまれてきた。しかし、令和4年に弥富市へ転出し、広大な跡地は、令和5年現在、空地になっている。




◇(新)競馬法……戦災復興資金捻出
 近代競馬は明治以降各地の競馬倶楽部により盛んに開催されたが、昭和12年(1937)に倶楽部を統合して日本競馬会が組織され、戦後も競馬会だけが開催していた。

 戦災で大きな被害を受けた都市の復興費用を捻出する必要から、昭和23年(1948)7月に(新)競馬法が公布された。
 その第一条には「この法律は、馬の改良増殖その他畜産の振興に寄与するとともに、地方財政の改善を図るために行う競馬に関し規定するものとする」と記されている。競馬には中央競馬と地方競馬があり、中央競馬は日本中央競馬会が、地方競馬は都道府県と総務大臣が指定する市町村が開催できる。
 指定市町村になるには「著しく災害を受けた市町村」「区域内に地方競馬場が存在する市町村」のいずれかの条件を満たす必要がある。

◇名古屋競馬場 誕生
 戦争で焼け野原になった名古屋市はこの条件を満たしており、愛知県と合同(現在は豊明市も加入)で名古屋競馬場設置の指定を受け土古町に競馬場を新設した。
 昭和24年(1949)6月1日に開場式を行い、初開催は5日から6日間であった。6日間で40,495人が入場し、馬券の売り上げは390万円余という盛況であった。

◇名古屋競馬の衰退
 弊害が指摘されながらも多くのファンを持ち永く開催されてきた競馬だが、時代の変化によりレジャーの多様化が進みだんだんと衰退してきた。
 平成16年(2004)に「名古屋競馬のあり方懇談会」が出した提言によると、次のような状況であった。

・県内の地方競馬で得た収益金から県や市町村へ拠出された金額は、これまで累計618億円(内:名古屋市は186億円)にも及ぶ
・名古屋競馬の売上げは昭和49年(1974)度がピークで、292万人が入場し735億円であった
・いろいろな改善策を行ったが49年度(1974)を超える事はなく低迷し、単年度収支は平成4年(1992)から赤字が続き、15年(2003)度末には累積赤字が37億円になっている
・施設の老朽化が進み、市街地にあるのでナイター営業はできず、ファンにとって魅力のある営業が難しい

◇弥富市へ移転
 さまざまな問題を抱えるなか、令和4年(2022)3月11日のレースを最後に土古の競馬場は73年の歴史を閉じ、4月8日にトレーニングセンターがある弥富市へ名古屋競馬場は移転し開場した。これに伴いあおなみ線の「名古屋競馬場前駅」は3月12日から「港北駅」に改称した。

 なお、現在(令和5年)、全国で競馬場は、中央競馬が10か所、地方競馬が15か所で、合計25か所である。

◇名古屋競輪 半年後に始まる
 戦後の競馬は戦災復興資金を捻出するために始まったが、競輪も同じで、競馬法が公布された1月後の昭和23年(1948)8月に自転車競技法が公布された。
 「自転車その他の機械の改良及び輸出の振興、機械工業の合理化並びに体育事業その他の公益の増進を目的とする事業の振興に寄与するとともに、地方財政の健全化を図るため」に開催するとしている。
 愛知県と名古屋市で名古屋競輪組合を結成して中村区に名古屋競輪場をつくり、24年(1949)10月から開催している。現在、全国に43か所の競輪場がある。





 2023/12/15