平和への願いむなしく
絵葉書
汎太平洋平和博覧会
 昭和12年、当時は東洋一とも言われた中川運河の支線周辺で大博覧会が開催された。日本が東洋へ進出をするなか、近代都市になった名古屋の更なる発展を求めて開催された汎太平洋平和博覧会である。しかし、平和を願う名称とは裏腹に閉幕の1か月後には盧溝橋事件が勃発して戦争への道を邁進し始めた。




 城下町だった名古屋が、明治になり産業都市へと大きく発展してゆくなか、販路を広げる努力も繰り返された。そのために有効な方法の一つが博覧会である。
 明治43年(1910)に関西府県連合共進会が後の鶴舞公園で開催され、昭和3年(1928)には御大典奉祝名古屋博覧会が鶴舞公園を会場として開かれた。

 この成功を踏まえて昭和12年(1937)に、中川運河の支線である港北運河(現:港北公園)一帯の広大な会場で名古屋汎太平洋平和博覧会が開かれた。
 この頃の名古屋は、人口が100万人を超え、名古屋港築造という大事業も完了し、名古屋駅も笹島から現在地へ移転して大都市の玄関にふさわしい姿となり、今の空見町には水陸両用の国際飛行場が開設された。まさに国際都市にふさわしい姿になっていた。発展した名古屋の姿を広く世界に伝え、名古屋の更なる発展の足がかりにするための開催である。

 3月15日から5月31日までの78日間の開催だ。太平洋沿岸を始め29か国が出品した。江川線(現:港区役所前の道)を挟んで東西の会場に分かれ、東会場の中央には150尺(45m)の大平和塔がそびえていた。
 480万人の来場者があり大成功裏に博覧会は終わり、名古屋の発展が期待された。しかし、閉幕してからわずか1月後の7月7日に盧溝橋事件が発生し、平和への願いもむなしく戦争への道を一路進み始め、ついに名古屋は戦災で壊滅的な打撃を受ける事になった。


右下:平和橋  絵葉書


右端中央:平和橋、左端は複葉機の翼   絵葉書

『名古屋汎太平洋平和博覧会画報』


平和塔
『名古屋汎太平洋平和博覧会画報』


機械館前の賑わい 絵葉書




 2023/04/13