中村遊廓と同じ区画割
観 音 町
 観音町の区画は四隅の道路が斜めになっており、中村遊廓と同じだ。終戦直後には500名もの芸妓募集が行われ、一時期はパンパン屋があったという。戦後の混乱期、たくさんの進駐軍兵士が駐屯した時代、港に近い地域ならではの歴史である。


    中村遊廓と同じ区画割   芸妓 500名募集



中村遊廓と同じ区画割
 観音町3~6丁目の街区は、四隅の入口が斜めの道になっており、大正12年(1923)に開業した中村区の旭遊郭(名楽園)と全く同じ造りである。また町名は、昭和10年(1935)の地図では「花里町」「玉姫町」になっている。
 昔の盛り場には遊郭がつきものだが、名古屋港周辺には明治45年(1912)に熱田から移転した稲永遊郭があった。ますます発展する港の周辺地域なので、それに加えて道徳への遊郭開設をもくろんだのかもしれないが、記録は残っていない。


南区の観音町
『大名古屋市街全図』 昭和10年


中村区の旭遊廓
同左




芸妓 500名募集
 昭和20年(1945)12月3日の『中部日本新聞』に芸妓募集広告が載っている。
 至急募集として、芸妓500名と仲居・売店売子・バー女給、それぞれ十数名となっている。募集したのは観音山前 新陽園事務所だ。

 戦争が終わってまだ3か月半しかたってなく、名古屋は一面の焼け野原で、住む家にも食べる物にも事欠いていた時代である。道徳もほとんどの区域が焼け野原になっていた。
 500人の芸者の需要があるとは考えにくく、実際は娼妓の募集であろう。
 この年の9月26日に進駐軍の先遣隊が名古屋に上陸し、10月26・27日に45,000人の本隊が上陸して進駐した。それから1月後の芸妓募集は、一般女性を守るための慰安所開設のためではないだろうか。この広告と並んで万能社名古屋出張所(昭和区)が「日米親善 女子従業員募集、16才より35才まで 委細面談」の広告があり、この業者はこの月だけでも数回掲載している。また、月末には名楽園(中村遊郭)が娼妓と通訳の募集広告を出している。

 『道徳の昔と今』によると昭和21年(1946)頃 観音町・泉楽通に遊郭ができたと書かれている。
 また『道徳の昔と今をたずねて』には、次のような思い出話が載っている。

     【福島政秋さん(大正9年生)の思い出】
 「戦後、観音町の方にパンパン屋が何軒かできた。泉楽通のここに4~5軒あった。昔の警察の寮の場所もパンパン屋があった。進駐軍が遊びに来たと思う。パンパン屋は今でいう遊郭であった。港の方に幸楽園(港楽園の誤植)と名前を変えて行ったと思う。パンパン屋の名前は覚えていない。1軒の中に小さい部屋がいくつかあった。終戦当時にすぐできたと思う。終戦後にぎやかになった。ここの遊郭の女の人の病院のようなものがあった。人間の修理所があった。病院ではなかった。遊郭の人が病気になった時に行ったと思う。」

     【石原きぬさん(大正10年生)の思い出】
 「北町におって私たちも親にこしらえしてもらって(嫁入り道具を持たせてもらって)出てきとるもんだから、赤い長じばんやいろんな色の長じばんがあったの。それをあそこの遊郭が値えよう買ってくれるの。好まれなかったから、こんどは築港の方へ越してかれたんでしょう。」

     【後藤鉦さん(大正9年生)の思い生出】
 「戦後、六条町に2~3軒の大人の遊ぶ旅館(パンパン屋)ができた。その後に港のほうに移って行った。歓楽街がこのへんにあった。」


『名古屋市焼失区域図』 昭和21年
赤塗りは戦災で焼失した区域

『中部日本新聞』 昭和20年12月3日




 2023/10/20