わずか10分で2000余人
愛知時計電機 被爆跡
『空襲の記録』
熱田大空襲
 名古屋は太平洋戦争の時、アメリカ軍の空爆で焼け野原となり多くの犠牲者を出した。多くの空襲のなかで短時間に大きな犠牲者が出たのが、昭和20年6月9日の熱田大空襲である。堀川に架かる白鳥橋南西には、愛知時計電機や愛知航空機など飛行機や兵器を製造している工場があり、重点的に爆撃された。


    新兵器 飛行機   太平洋戦争と名古屋空襲   熱田大空襲
    動員学徒   徴 用 工  



新兵器 飛行機

◇飛行機発明 → 新しい兵器へ
 明治36年(1903)にライト兄弟が飛行に成功した。この新しい乗り物は軍からも注目され、新しい兵器として急速に改善がすすみ、各国が配備した。大正3年(1914)から始まった第一次世界大戦では新兵器として戦場に投入され、日本軍もドイツが租借していた中国山東省の青島要塞を攻撃するのに使用している。
 飛行機の登場により戦争の様子は大きく変わった。従来の艦砲射撃や進撃してきた敵軍による攻撃と異なり、遠方から短時間で内陸部への大規模な攻撃できるようになった。

◇名古屋……日本有数の飛行機生産地
 名古屋は明治になると産業都市になり、繊維産業や陶磁器産業など軽工業で繁栄した。徐々に金属加工などの技術も育ち、大正7年(1918)になると熱田の砲兵工廠で飛行機の製造が始まり、それをきっかけに日本有数の飛行機生産工場が密集する地域になった。

◇昭和4年……名古屋で防空演習
 戦争時には敵機による空襲が想定されるので、昭和4年(1929)7月17日から23日にかけて名古屋と周辺地域で市民を巻き込んだ防空演習が大規模に行われている。前年の昭和3年(1928)6月に張作霖爆殺事件が起き、日中戦争から太平洋戦争への道を歩き始めた時期だが、まだ具体的な緊迫感はなく「関係官公署及諸団体並市町村民ノ訓練、防空思想ノ普及徹底」を目的としていた。


『名古屋防衛隊配備要図』
昭和4年7月   


『名古屋防空演習一般要図』
左図の裏面   




太平洋戦争と名古屋空襲

◇昭和17年(1942)4月……名古屋初空襲
 昭和16年(1941)12月8日の真珠湾攻撃をかわぎりに太平洋戦争が始まった。
 それから4か月後の翌17年(1942)4月18日、太平洋沖合に来た空母ホーネットから発進した16機のB25が日本空襲に向かった。13機が東京、2機が名古屋、1機が大阪方面を空襲した。
 名古屋では焼夷弾により陸軍病院(現:名古屋城正門の南)・東邦ガスのガスタンク(熱田区)・造兵廠(熱田区)・三菱大江工場(南区)など6か所が攻撃され死者8名と負傷者3名を出している。

◇昭和19年(1944)12月……本格空襲始まる
 その後の2年間はなかったが、昭和19年(1944)7月にサイパン島、8月にグアム島とテニアン島が米軍の手に落ちると日本までの爆撃が可能になった。12月から本格的に名古屋の空襲が始まった。『名古屋空襲誌』によると20年(1945)7月までの8か月に単機による爆撃やビラ撒きも含めると62回行われている。その内、40機以上の大空襲が16回ある。初期は飛行機のエンジンや機体を製造している三菱の大幸工場や大江工場が攻撃され、併せて市街地の無差別攻撃が行なわれて焼け野原となった。


焼け野原になった、栄・広小路付近
『新修名古屋市史』




熱田大空襲
◇昭和20年(1945)6月9日……熱田大空襲
 熱田の愛知時計電機なども飛行機や兵器の製造をしていたが空襲がなく、工員達は「熱田神宮のご加護があるから」など淡い希望的観測をしていたという。
 しかし昭和20年(1945)6月9日に大空襲が行なわれて、10分間の爆撃で死傷者6,000人という名古屋空襲で最大の犠牲者を出した。

◇空襲警報発令 → 解除 → 再発令 …… 犠牲者拡大
 この日は朝の7時45分に警戒警報が出されていた。愛知時計電機などで働いている工員や徴用工・動員学徒などは普段どおり仕事を始めたところ8時24分頃に空襲警報(サイレン)が鳴った。毎度のことなのでそれぞれ決められた防空壕に向かい退避したが、いつもなら数分後に西から現れる敵機がいっこうに現れない。しばらくすると空襲警報が解除されたのでそれぞれ配属されている仕事場へ戻ってゆき、近所の住人達は家へ帰ろうとしていた。
 するとすぐに再び空襲警報が鳴った。時刻は9時30分頃であった。その時すでに敵機は頭上に来襲しており、空を見上げると爆弾倉のゲートが開き爆弾が次々と落ちてくるのが見えたという。逃げ惑う人々や工場にとり残された人々の上に500㎏爆弾や1㌧爆弾が降り注ぎ、次々と人々は倒れあるいは爆弾で粉砕され肉片になり飛び散った。
 わずか10分間に3波の攻撃をして米軍機は去って行った。43機(日本側記録では42機)で278㌧の爆弾を、愛知時計電機・愛知航空機・住友金属工業と周辺に投下した。後には崩れ落ちた建物とたくさんの遺体・助けを求めるうめき声が残り、その中を自力で動ける人々が安全なところを求めて必死になって逃げて行った。白鳥橋は直撃弾を受け大破してしまった。

◇火葬場も棺桶も足りない
 すぐに救護活動が始まったが、輸送する車も医薬品も圧倒的に不足するなか、負傷者は次々と亡くなっていった。おびただしい遺体は市の2ヶ所にある火葬場では処理することができず、翌日からトラックに乗せられ、市の塵芥焼却場で焼かれた。1週間のあいだ遺体を山と積んだトラックが毎日塵芥焼却場の中へ消え、多い日は1日に5台も走った。初めは棺オケに入れられた遺体も、やがて棺が尽きると、むき出しのままムシロをかぶせて運ばれた。

◇10分間で → 死者:2,068人 負傷者:1,944人
 市の統計課資料では、死亡者が2,068人、負傷者が1,944人だが、これは犠牲者のうち当時把握できた一部の数字の可能性もある。
 当時動員学徒として働いていた人の手記には「従業員名簿も勤務票も粉砕され、焼失した両工場は、当日の正確な従業員数も出勤者数もわからなかった。正規社員の2倍以上の学徒、10倍以上の徴用工員が働き、当日逃げ出したまま故郷に帰ってしまった徴用工員も大勢あることから、事態はますますわからなくなったのである。」と書かれている。

 ちなみに『名古屋空襲誌』に、市統計課や県防空総本部の資料、日誌や新聞記事などを集めて集計した空襲一覧が掲載されているが、終戦までの犠牲者は7,858人、負傷者は10,378人である。死者の26.3%、負傷者の18.7%が6月9日の10分間の空襲によるものであった。

◇新聞報道……被害は若干
 この大空襲について、翌10日の中部日本新聞(現:中日新聞)は次のように報道している。なお、続報はない。
 「B29主力、兵庫地区へ 一部数十機、中京(南部)暴爆
  南方基地の敵B29編隊は9日午前7時半ごろから熊野灘より本土に侵入、主力をもって兵庫地区に来襲し大津方面より志摩半島南方に脱去、
 一部数十機は奈良、近江八幡を経て岐阜県南部から名古屋付近に侵入、同市南部方面に主として爆弾を投下して同十時ごろ遠州灘から脱去した、
    〈中略……他地域への米軍機侵入の記事〉
 東海軍管区内における被害は名古屋市南部方面の一部その他航空基地若干で損害及び戦果は取査中である」

☆『名古屋空襲誌』
 熱田大空襲はもちろん名古屋の空襲について、当時体験された方のお話しなども含め非常に詳しく収録されています。ぜひ一読される事をお勧めします。


赤色ハッチが焼失区域
『名古屋市焼失区域図』 昭和21年


『名古屋空襲誌』




愛知時計電機の被災状況
『名古屋の100年』




動員学徒

◇年々拡張……最後は小学生以外は全員
 戦争により勤労世代は徴兵され、その労働力不足を補うために学生や生徒を勤労動員した。

 ・昭和13年(1938)6月~   夏期休暇などに中等学校低学年(1・2年生)は3日、それ以外は5日
 ・昭和16年(1941)2月~   年間30日以内(食料や木炭の増産)。学校報国隊(学校単位)の結成
 ・昭和18年(1943)6月~   軍事施設の建設や軍需物資の製造などにも動員
 ・昭和19年(1944)1月~   年間4か月の継続動員
 ・  〃      4月~   通年で軍需工場へ動員
 ・  〃      7月~   深夜業に中等学校3年生以上の男子だけでなく女子も動員。
                国民学校高等科の継続動員・1日10時間労働
 ・昭和20年(1945)3月~   国民学校初等科(現:小学校)以外は、全学校の授業停止と勤労総動員
 ・  〃      8月16日  実質動員解除

◇学徒動員数
 愛知県での、昭和19年(1944)6月20日現在(通年動員開始後)の動員数
 ・中等学校3年生以上
   男子:14,462人 女子:10,828人 合計:25,290人
 ・中等学校低学年と国民学校高等科(現:中学1・2年生)
   13,187人

 この数は愛知県内にある学校からの動員数で、これに加えて他県から動員された学徒も県内の軍需工場で働いており、総数は不明である。また、動員の他に中学(旧制)の修学年数を5年から4年に短縮するなど、学制の変更も行って、労働力の増加を図っていた。
 熱田空襲の時、愛知時計電機などの工場で多くの動員学徒が働いており、空襲の犠牲になっている。

◇私が以前お会いした方
 1人は当時女学校の生徒で愛知時計電機に勤労動員されていたという。「よく助かりましたね」と言ったところ、「宮中学(白鳥橋東岸)まで逃げたので助かった。白鳥橋へ逃げた人はたくさん亡くなった」と話されていました。
 別の方は「私は一応女学校卒業と言う事になっているけど、実際には勉強なんかしていない。毎日工場に働きに行って、授業はろくに受けなかった」とのことでした。勤労動員されたのは「大曽根の三菱」だったそうです。




徴 用 工
◇敗戦時……600万人余
 戦争により不足する労働力の補充や、軍需物資増産のため、一般の人が強制的に軍事工場へ徴用された。
 兵役への命令書が「赤紙令状」と呼ばれたのに対し、徴用の命令書は「白紙令状」と呼ばれた。

 ・昭和13年(1938)5月  国家総動員法 施行(前年7月に盧溝橋事件勃発、日中戦争は泥沼化)
 ・昭和14年(1939)7月  国民徴用令 施行(国家総動員法に基づく)。
 ・  〃      8月  初の徴用が建築技術者に行なわれる
 ・昭和16年(1941)~   徴用が大規模になる(この年、太平洋戦争勃発)
 ・昭和17年(1942)1月  朝鮮(当時は日本の統治)で、民間企業による自由募集が役所の斡旋に変わる
 ・昭和19年(1944)9月  朝鮮でも男子の徴用が始まり、日本へ強制的に派遣される
 ・昭和20年(1945)3月  他の命令と統合し、国民勤労動員令になる
 ・  〃     10月  国民勤労動員令 廃止

 動員学徒と同じように、熱田大空襲では多くの人が犠牲になっています。
 昭和20年(1945)の敗戦時には、日本全国で616万人が徴用されていたとのことです。




 2023/04/02