家康も暮らした
加藤図書助 屋敷跡

 熱田の有力な地侍であった加藤図書助(東加藤)は、精進川と海に囲まれた羽城と呼ばれる地に住まいを構えていた。屋敷には3年間ほど幼い竹千代(徳川家康の幼名)が人質として暮らしたこともある。


    熱田の支配者   家康が人質として3年暮らす   桶狭間の戦い・小牧長久手の戦い



熱田の支配者
 加藤家は熱田の有力な地侍で、岩村城主加藤景廉の子孫とも言われている。
 家は代々羽城(はじょう)に屋敷を構えて東加藤と呼ばれ、分家は大瀬古(後に東浦、旗屋町)に屋敷があり西加藤と呼ばれていた。
 東加藤の屋敷は精進川の東南にあり、東西108間5尺(198.0m)、南北56間2尺(102.5m)という広大なものであった。周りは精進川と海に囲まれ羽城と呼ばれた。

 『張州雑志』には「文禄4年(1595)頃、熱田は千秋刑部大輔(大宮司)・加藤図書助(東加藤)・加藤隼人(西加藤)の3人が支配している」と書かれている。


熱田郷惣図 『張州雑志』




家康が人質として3年暮らす

 東加藤の屋敷に天文16年(1547)から3年間、竹千代(徳川家康の幼名)が暮らしていたことがある。竹千代が数え6才から8才までである。

 三河を支配していた松平広忠(竹千代の父)は今川義元と手を結んで織田氏に対抗しようとした。その証として竹千代を駿府(現:静岡市)の今川氏へ人質として送ることにしたが、その役を担った戸田康光(田原城主)が竹千代を織田信秀(信長の父)へ1000貫文(500貫とも)で売ってしまった。尾張に連れてこられた竹千代は信秀の命で東加藤が預かることになった。

 天文18年(1549)に竹千代は帰された。この年、織田信秀の息子信広(信長の庶兄)が安城での戦いで今川方に生け捕りとなってしまい、人質交換で解放されたのである。しかし岡崎へ帰ったのではなく、人質として今度は今川氏の元で暮らすようになった。岡崎へ帰ったのは桶狭間の戦いの後で18才の時である。

 ※尾張で人質生活を送った場所は万松寺とする説もある。




桶狭間の戦い・小牧長久手の戦い
 永禄3年(1560)、信長が桶狭間の戦いに向かうとき、熱田神宮で戦勝を祈願した。御神酒を頂戴するにあたり加藤図書助順盛(ずしょのすけのぶもり)に酌をさせ、「今日の戦いに勝とう(加藤の掛詞)」と言ったと伝わっている。
 加藤はとりあえず集まった召使いなど70人に竹竿や武器を持たせて出陣し、追々家来が駆けつけて200人ほどの部隊になった。しかし、戦場に到着する以前に今川義元が討たれてしまったという。また、菖蒲幟や白い布などを竿に結んで旗指物のように見せかけたとも言われている。

 天正12年(1584)の小牧長久手の戦いでは家康側につき、兵を集めて熱田の海岸の防備に努めて家康に褒められている。

 慶長8年(1603)には、加家村(現:東海市)で140石余の領地を家康から与えられているが、家康が東加藤家で人質になっていた頃の待遇への感謝の意からである。





 2023/07/02