盛大な御開帳
専修寺名古屋別院
 円頓寺商店街の少し南にある専修寺名古屋別院は、普段は静かな寺であるが、かつては真宗高田派の尾張における中核寺院であった。多くの伽藍が建ち並び、盛大な御開帳で賑わった寺である。

    真宗高田派 尾張の中核寺院   盛大な御開帳



真宗高田派 尾張の中核寺院
   専修寺は、円頓寺商店街から少し南へ入った古くからの家並みの中に建っている。

 『名古屋市史』によると、正保4年(1647)に皆戸町(中橋の東南)で創建され、明暦3年(1657)に現在地へ移転した。享保の大火(1724)で焼失したが再興され、元文4年(1739)に現在の三重県津市にある真宗高田派本山専修寺(せんじゅじ)の別院となり高田山高田本坊と改称した。

 異説もあり、『金鱗九十九之塵』では、元は信行寺(他の資料では順正寺)という東本願寺派の寺で正万寺町(五條橋一本東)にあったのが、明暦2年(1656)に高田宗に改宗して名も信行院に変え現在地へ移転したとしている。

 尾張における高田派の中核寺院で、年初に御城へあがり御目見得するときは専修寺門跡名代としての待遇であった。
 大正初期に出版された『名古屋市史』には、尾張の真宗高田派寺院の末寺を管轄し、本堂、書院、布教所などの伽藍が建ち並んでいると書かれている。戦災でそのほとんどが焼け、今は明治43・44年に落成した鐘楼と表門がかつての偉容をうかがわせている。


『尾張名所図会』



盛大な御開帳
 このような高い格式なので、盛大なご開帳もここで行われている。
 津市の本山専修寺と栃木県真岡市にある本寺専修寺は、ともに親鸞上人の遺骨をお祀りする高田派の双璧だ。安永6年(1777)7月15日から8月14日までの1ヶ月、真岡の本寺専修寺に祀られている一光三尊仏(一つの光背の前に阿弥陀如来を中心として観音菩薩、勢至菩薩が立つ像。善光寺に由来する)など宝物の出開帳が名古屋別院で行われた。

 これは、本山専修寺(現:津市)で開帳した後、京都、桑名、神戸(現:鈴鹿市)、高須(現:海津市)で行われ名古屋へ来たものだ。終わってから真岡へは、知立、岡崎、浅草、上野、麻布で開帳しながら帰って行った。真宗高田派布教の一大イベントである。

 『絵入猿猴庵日記』にその様子が記録されている

◇参拝者 午前4時から押し寄せる
 すでに2月中旬から城下の所々に立て札を立てPRしていたので、開帳初日は大変な数の人が押し寄せた。
 7月15日卯の刻(午前6時)に開門だが、7ツ(午前4時)前より門前に隙間がないほどの参拝者が押し寄せていた。事故が起きてはと心配した寺が定刻より早く門を開けると、人々は我先に境内へ入り庭も一杯になってしまった。前の晩から泊まり込んでいた目明かしが「なぜ、早く門を開けたんだ!」と怒っている。仕方がないので門を閉めたが境内の人は出て行かず、内も外も人で一杯だ。





山門内外の混雑
◇目を回す人・スリもでる
 卯の刻(午前6時)になったのでお堂の扉を開けると内陣をめがけて一斉になだれ込んだ。
 突き倒されて転ぶ人や目を回す人も出る。「目を回したぞ」の声に寺の人が水桶を持って行くが、堂内は暗くてどこに倒れているのか分からない。声のしたあたりを狙って水をかけたら、着飾った女中に掛かり濡れ鼠になってしまった。

 人出を狙いスリもたくさん来て、財布や煙草入れなどが大分すられてしまった。参拝者の中に腰に大きな瘤ができている人がいた。瘤を財布と勘違いしたスリが刃物で瘤を切ったので、参拝者は血だらけになり目を回してしまったという。




本堂も人で一杯
   ごった返す境内の様子を見てみよう。
◇境内には 番所や展示小屋
 門の左には目明かし小屋、右には幕をめぐらした2畳敷きほどの番所がある。
 手水鉢の脇には2~3人の寺の人が肩衣と袴を着用して、1文出すとひしゃくで水をかけてくれる。脇の小笊は一文銭が山になり、銭さしに通されたのが手水鉢の縁に並べられている。

 境内に小屋が建てられ、中では一光三尊仏がインドから日本に伝わり、善光寺や専修寺が建立されるに至った様子を描いた4幅の絵伝を、僧が絵解きして参拝者に説明している。隣の小屋に一光三尊仏が安置されているが、木製の写しである。志を献上すると毎月15日に永代供養すると盛んに勧めている。





「御絵伝」の絵解き
   本堂正面に設けられた板葺・よしず囲いの小屋には役人が詰め、槍を立て用心水が置かれている。

  ◇内陣拝観は12文
 本堂前の大香炉は四方を油障子と幕で囲い、香炉前の柱には細引きが張られて落とし物の数珠やキセル、財布などがぶら下げてある。
 堂内へ入ると、右手に御宮殿(ごくうでん、仏像などを納める厨子の一種)造営の寄進をする奉加場が設けられている。

 左手の内陣入口では「内陣入りは12文でござる」と呼ぶ声がする。初日は堂内で切手(内陣へ入るチケット)を売っていたが、混雑するので16日からは外で売るようになった。もっとも内陣とはいっても、仏像の直前である内々陣ではなくその外側までしか入れない。内々陣に入っている人もいるが、特別の寄進をした人だ。

 内陣はなかなか見事な造りで供物がいろいろ飾られ、側には白木のくり足が付いた台がいくつも積んである。下げ札に「仙洞御所宮様方」などと書かれているので、名古屋の前に行った京都での開帳の時に寄進された物だろう。内陣での参拝が終わると右が出口だ。

  ◇宝物が一杯 霊宝場
 霊宝場では、見台の上に飾ったり、宮殿(くうでん)に掛けられたりして、様々な宝物が展示してある。
 親鸞上人一代絵伝、上人真筆の御文や使われていた数珠、上人の遺骨まで宝塔に入れて宮殿に安置されている。

 これだけの展示は滅多に見られず、門徒にとっても一般の人にとっても魅力のあるご開帳である。現代なら、さしずめデパートや博物館で開かれる○○寺大秘宝展というところであろう。


 
親鸞上人直筆の十字名号
絵は、いずれも『絵入猿猴庵日記』
  ◇賽銭など 1000両
 多くの人が参拝に訪れたので、1か月の会期も終わりに近づくと、堂内の縁側に敷かれている畳は踏み破られて所々に有るだけとなり、残り雪のような姿になっていた。

 賽銭とその他の収入は1,000両ほどにもなり、一身田(津)と真岡の専修寺、名古屋別院の3寺で分けたという。京都での開帳もやはり1,000両ほどだったので、名古屋の繁栄は京都に劣らないということもいわれた。

 8月14日の最終日を無事に終え、17日には知立をめざして出立した。五條橋を渡り京町筋から本町通を南へ進んでゆく行列を、多くの人が見送った。

 翌18日、静けさを取り戻した高田本坊を住僧(住職)が寂しく出て行った。身持ちが悪く、寺を博打宿にも使わせていたことが本山の専修寺にばれて、寺から追放されたとのことである。



 2022/04/13