地中から出てきた
子 守 地 蔵
 四間道のすぐ西にある狭い路地を行くと、突き当たりに小さなお堂がある。中には子守地蔵が安置されている。このお地蔵様は、明治の頃に地中から出てきたと伝えられているものである。

 蔵と長屋のまちに流れる 和讃  なぜ、地中から?



蔵と長屋のまちに流れる 和讃
   白壁の蔵と長屋建築が落ち着いた雰囲気を醸している四間道からすぐ西に行き止まりの路地がある。そこには子守地蔵と呼ばれるお地蔵様が安置されている。

  毎年、8月23・24日の地蔵盆の時には、提灯が飾られて日暮れ時を待って火が灯され、地蔵堂から和讃が流れてくる。蔵と長屋の多い街中にほんのりと浮かび上がる風景は今の時代のものとは思われず、映画の一シーンを見ているような錯覚にとらわれる。

 

路地の突き当たりに鎮座

平成27年(2015)の地蔵盆風景





なぜ、地中から?
 このお地蔵さんは、明治20年代に井戸を掘ったとき、あるいは井戸浚えの時に地中から出てきた石仏である。なぜ地中にあったのだろうか?。

◇神仏分離令で埋められた?

 『尾張名古屋のお地蔵さま』(著:芥子川律治)には、次のように書かれている。

 「明治二十年代に近くの井戸から出現したものとされていますが、刻銘は宝永七年とあります。最初は子どもの墓碑または供養仏として建てられたものでしょう。」
 「この地蔵尊の世話をしている酒井さんの話によれば、井戸さらえの時に発見したお地蔵さまで、初めのお堂は明治28年(1895)に建て、昭和47年(1972)に改築しておまつりしているとのことです。
 地蔵像は高さ30センチ、尊像の右側に宝永7年(1710)の刻銘、左側に円城童子の刻が認められます。
 問題は井戸の中に沈んでいたということですが、子どもの供養碑として建立したこの地蔵尊を故意に沈めるはずはありません。おそらく、路傍の地蔵堂に安置してあったものを、明治9年(1876)の令によって、近隣の人がひそかに尊像を廃井に沈め、地蔵堂を壊したものと考えられます。」

 現地の説明板では井戸さらえではなく井戸を掘ったとき発見となっているが、いずれにしても地中から出てきたお地蔵さまである。

 明治9年(1876)の令とは、神仏分離令の関連法として布達された「山野路傍の神祠・仏堂処分の件」だ。
 あちこちにある小さな祠を、大きな社寺に集中することを命じた法令である。そのまま存属させるには役所へ申請して許可を受ける必要がある。大事なお地蔵様を廃棄するよりはと井戸に沈め、それが井戸さらえによって再び姿を現したという説である。

◇寺の移転 取り残され地中に?
 明治9年(1876)に井戸に沈められて28年(1895)に掘り出されたとすると、その間はわずかに19年しかなく、この間にこの地域は大きくは変動していない。このため掘り出した時に地域の人は沈める前の様子などを知っていたはずだが、そのような伝承はない。また、近所の寺に預ければこれまでどおり日々参拝できるのを、井戸あるいは地中に埋めてしまったというのも不自然である。埋められた時代は、明治9年(1876)ではなく、掘り出された時の住人達の記憶にない古い昔の可能性がある。

 古地図を調べると、この付近にはかつて寺があった。絵図なので正確な場所ではないが、地蔵が掘り出された場所の南に長円寺が描かれている。

 長円寺について『名古屋府城志』は、次のように記録している。
「長円寺は、昔時海東郡鰯江村にありしが、寛永年中(1624~44)広井村の内中橋裏へ引移、其後享保九辰(1724)十一月西水主町へ易地すとなり」

 お地蔵さまが造られた宝永7年(1710)頃はこの地に存在しており、地蔵に刻まれた円城童子の名は長円寺と「円」の字が共通している。

『名古屋城下図』
元禄7年(1694)

『尾府名古屋図』
宝永6年(1709)写し
 昔は市内でも寺には墓地が付属しており、亡くなった子どもの墓碑あるいは供養仏として長円寺墓地に置かれたのが、寺の移転時に何らかの事情で残され地中に埋もれたのかも知れない。
 そうだとすれば、寺が移転した170年後の発見時には、事情を知る住人がいなかったことも当然である。

 井戸の中から、あるいは井戸を掘っている時に出てきた地蔵様の話は、京都の壺井地蔵、松本市の地蔵清水、磐田市の井戸地蔵、刈羽村(新潟県)の地蔵井戸など各地に伝わっている。地蔵様と井戸は縁が深いのだろうか。

 数奇な運命をたどった地蔵尊、いつまでもこの地に今のままの姿で鎮座していてほしいものだ。





 2022/06/06