西北部最大の商店街
円頓寺商店街
 
 四間道近くの円頓寺商店街。かつては名古屋西北部最大の繁華街として繁栄し、一時期は衰退も見られたが、近年は個性的な下町の商店街として再び脚光を浴びている。


    繁栄する商店街   衰退から再生



繁栄する商店街
  ◇門前町・堀川舟運で賑わう
 五條橋から西へと商店街が延びている。東から円頓寺・円頓寺本町・西円頓寺商店街と三つの商店街が続き、西端は名古屋駅の近くだ。ここは、かつては広小路・大須とともに名古屋有数の商店街であった。

 沿道には、円頓寺の他、慶栄寺、高田本坊などの寺があり、参拝客やご開帳の見物客を当て込んだ店が周りにでき、門前町が発達していった。また、舟運の大動脈堀川には多くの船が上ってきて、荷を降ろした後に、水主たちが買い物をしたり息抜きに遊ぶ場所にもなっていた。

◇周辺に大工場進出
 明治後期になると、名古屋駅に近い所に大きな工場が進出し始めた。また、大正から昭和にかけて農村であった周辺地域で都市化に向けた耕地整理が行われ、大工場が設立された。日本陶器[現:(株)ノリタケカンパニーリミテド]を始め、豊田紡績・菱文織布・金城メリヤス・中華紡績などが今の西区内にできてその後も増えてゆき、円頓寺商店街が一番身近な商店街であった。

◇路面電車・瀬戸電で交通至便
 交通の便も明治34年(1901)に名古屋電気鉄道が柳橋から押切までの電車を開通させ、その後順次延伸されて円頓寺商店街への便が良くなっていった。44年(1911)には瀬戸電堀川駅が景雲橋の北東で開業し、瀬戸からもたくさんの人が訪れるようになり、商店街は名古屋西北部最大の繁華街として大変な活況を見せるようになってきた。



『名古屋市街全図』 昭和12年
   ◇劇場や映画館もある 庶民の商店街
 『大正昭和名古屋市史』を見ると、五條橋から江川までの2.5町(273m)の間にびっしりと商店が建ち並び、開慶座と新富座の2つの寄席、豊富館という活動写真館がある。

 この商店街の特徴として、次の3点を挙げている。
 ・飲食店、食料品店、呉服用品店、家庭装飾品、日用品店などが大多数を占め、他はほとんどない
 ・道幅が2.5間(4.6m)しかないので、通りの両側で業種の大きな違いはない
 ・碁盤割地区と巾下地区の両方からの来客がある。さらに、瀨戸電、江川線、西部工場地帯の住民の食料や衣料、家庭用品を供給する商店街になっている

 広い範囲からたくさんの客が訪れ、実用品を中心に買い物を楽しみ寄席などに立ち寄る、そんな商店街であった。
 


 
スズラン灯が付いた
昭和25年
『名古屋情熱時代』



テレビ塔が見える
昭和38年
『名古屋情熱時代』




衰退から再生へ
◇一時期は衰退
 休日には、肩がふれあうほどの人が集まった円頓寺商店街も、昭和50年代になるとだんだん人通りが減ってきた。
 スーパーや大型ショッピングセンターができ客足はそちらへと向かっていった。マイカーが普及していったが、昔からの商店が密集する円頓寺では駐車場の確保もままならなかった。たくさんの職工が働いていた工場も、移転したり廃業したりしてなくなってゆく。堀川を行き来していた舟もトラックに取って代わられ、昭和53年(1978)には、瀬戸線が栄に乗り入れて堀川駅はなくなり、人通りは一段と減ってきた。

 地下鉄ができたが、丸の内駅も国際センター駅も円頓寺からかなり離れている。交通の便の悪いことが円頓寺が大須に遅れをとった最大の要因である。

◇下町情緒に満ちた 個性的な地域
 その反面、円頓寺には他にない魅力がある。江戸時代の面影を残す四間道、下町情緒がただよう長屋建築、石の欄干の五條橋、いくつもの寺社や屋根神様。平板で特徴の少ない名古屋の街の中で、時代をスリップしたようなこの地域は、名古屋でオンリーワンの異空間だ。住んでいる人たちも、マンション族とは違う。先祖代々住んでいるご主人、嫁入りして60年住んでいるお婆さん。近所づきあいも濃密で人情が満ちている。この人たちがいるからこの街は生きていると感じさせる。

◇個性的な新しい店が次々に
 最近は、この街の魅力にひかれて、新しい店もできてきている。
 蔵や長屋を利用して、喫茶店やレストラン、しゃれた小物などを商う新しい店がいくつも生まれている。
 空襲をくぐり抜けて残された貴重な都市空間をうまく再生して、再び名古屋有数の特色ある商店街になってほしいものである。




 2022/03/04